マタイによる福音書11章16-19節、詩編107篇33-43節「何したち聴かんき担う」

24/8/18主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書11章16-19節、詩編107篇33-43節

「何したち聴かんき担う」

今朝、会堂の玄関を入られた時、あれ、受付テーブルの上が違うと、気づかれたと思います。7月の長老会報告でも伝えましたが、テーブルが古くなって、いつ真ん中からバキッと折れるか心配なので、先の月曜日、吉永三重姉の葬儀式をきっかけにテーブル上の聖書棚と週報ボックスを降ろして、今月中にテーブルも新しくする予定です。私の腰が重いのを三重さんが持ち上げて下さったようにも思いますが、これは会堂が綺麗になるという予告ではありません。あるいは、すぐ南海トラフが来たら、週報ボックスが倒れて命に関わるきと言えば、この御言葉との重なりが見えやすいでしょうか。

イエス様は「人の子が来て」と、ご自分が人となられた神様として、世に来られたことを言われます。この呼び名は洗礼者ヨハネが一番心にかけていて、だからこそ人々に必死で悔い改めを呼びかけた、世の罪を裁きに来られる、裁き主にして同時に救い主であられる神様!の呼び名。それが「人の子」です。譬えるなら受付のテーブルは世界、そこから人を死なせる罪を裁き取り除き、テーブルも新しくしたら、人は罪も死もない新しい世界で救われて生きられる。マタイ福音書に多く引用されるイザヤ書の救いのイメージです。だからヨハネは、文字通り死ぬ気で、この裁きから救われるために神様に悔い改める洗礼を受けなさい、神様に向き直って生き直しなさい、神様と共に歩みなさいと洗礼を授けた。

ところが人々は、最初は、おおの怖いちや、裁かれたらいかんき洗礼を受けちょこうと、ヨハネから洗礼を受けたのですけど、では神様に、ごめんなさい、これからはあなたの御言葉に従って歩んでまいりますと、改めた生活を神様に方向転換して歩んだかと言うと、私たち、自分自身の洗礼後の生活と重ねて、胸が痛くなるのではないかとも思うのです。

急所は、その痛みをどのように、誰のもとで解決しようとするかです。それがイエス様が、今も昔もかもしれませんが、その時代、世界、人々を「広場に座って他の者に呼びかけている子供たち」に譬えた理由です。自分に向かって、さあ立って踊ろうとは言わない。自分の魂に悲しもうとも言わない。他の人に、何で踊らん、何で悲しまんと、不満を言う。

楽しく踊って欲しいのに踊ってくれんのは、悔い改めの洗礼者ヨハネです。無論、踊りは譬えです。よさこいらあ行って(笑)と断じて裁くのではない。わかりやすく言えば、もっと楽しい宗教やりや、お祭りでごちそう食べて飲んで、神様も皆が楽しい気持ちながが好きやないがと。でもヨハネは、それが結局、偶像礼拝に陥って裁かれた旧約の民の態度に、今の時代の人々も陥らんよう、断食して赦しを祈っておったのです。楽しいかどうかじゃなく、何で神様が楽しいのか。本当に!何で神様が、何で礼拝が嬉しくて、礼拝後お茶飲むだけで笑って過ごせるかでしょう。

そのために神様が「人の子」となられたから。私たちと同じ命と心を、楽しみも悲しみも痛みも、真実に共有できるように、同じ人となられて来て下さったから。人として!人を死なせる罪から、死から、裁きから、人を完全に救うために、人の皆の罪を共有されたのです。十字架で一切の罪を奪い取るように負って、これが罪の裁きだと。こんなにも真実で恐ろしい、これから人が救われなければならない罪を、だからわたしが引き受けるから、あなたはわたしの命を引き受けて、そのためにわたしを人に与えた天の父の子となって、永遠に共に生きよう。これが人の子の裁きだと、十字架の裁きと救いに人の子が飛び込んで来て下さった。

その人の子が、その時代に罪人と呼ばれていた人々に、あなたをこそ救いに来た神の国に、わたしに、ついてきなさいと招かれたら、はいと従ったのです。それで、神様すごいですね、こんな私を救うんですね。そうながって!と、神様の喜びを!共有して、食べて飲んでしよった。そしたら今度は逆に、大飯喰らいの大酒飲みや言うて後ろ指を刺される。どっち?(笑)ってなるんですけど、もし、こっちって自分を指差して、この私の思いが一番であるなら、人が何をしても、神様が何をされても、不満がある。それが人間なのではないでしょうか。

でも本当は知っているのだと思うのです。本当は自分が正しくないことが不満なのだと。正しくありたいのに、できない痛みを、それで人のせいにしたり、正しくないことを思わせる洗礼者が悪いと不満の矛先を、あるいは口にしなくても神様に向けていることが、神様に幼子のように向き合えないことが皆あるのではないか。

その痛みを、だから同じように痛むことができ、背負って泣くことも、そこから私たちを救い出すこともおできになる人の子としてキリストは、わたしについてきなさいと招かれるのです。ここに呼び名が挙げられる徴税人であったマタイもそこで「立ち上がってイエス様に従った」(9:9)。傷の中に座ったままでなく立ち上がって、自分は正しくなくても、その私を受け入れて救いに来て下さった、あなたは義しいですと、私の救いを喜ばれる神様を喜び、お従いする。神様の知恵は、そこに働くのです。