24/8/11主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書11章7-15節、マラキ書3章19-24節
「圧倒的十字架の先駆者」
「見よ、その日が来る」。預言者マラキは、主なる神様が来られ全ての人が裁かれる日を預言しました。でもそれは、その前に預言者エリヤを遣わすから、悔い改めなさいという預言なのです。南海トラフの注意が報じられるのとも同じでしょう。そこから救われてほしいから。
それがエリヤとして遣わされた洗礼者ヨハネでしたが、エリヤは主の火を天から降らせた預言者としても知られます(列王記上18:38)。そのイメージがヨハネ自身強かったのか、その裁きから人々を救うために!来られた十字架の神様の先駆者として、ヨハネは生まれたのです、けど、その神様の救いのご支配を伝える時、この神様に!あなたの命の向きを変えて悔い改めなさいと伝えるよりも、この方は火による裁きをなさるから!と、裁きに引きずられたとも言えるでしょうか。
すぐ前の6節ですが、ひとっちゃあ裁かないように思えるイエス様に、つまずきかけた。本当に、あなたがマラキの預言した「見よ、その日が来る」と言われる主なのですかと、まるで風に揺れる葦のように揺れた。
あるいはその話を聴いた群衆が、存外ヨハネも弱いねゃと思ったのか。イエス様は、その群衆に向かって、あなたがたが荒野にまで出て行って、あるいは悔い改めの洗礼を受けさえしたのは、一体誰に出会いに行ったのかと問われるのです。そらあ預言者ですけんど、と群衆は思ったか。そうだ。でも単なる預言者じゃない。そもそも預言者は神様の御言葉を語る者だが、それを聴く人、信じる人は、神様に向き合い御言葉を聴くのではなかったか。ではヨハネが告げた神様に、あなたがたは出会ってないのか。わたしにつまずかない者は幸いであると言った言葉がわかるだろうかと、10節でマラキ書の別の預言を引用してこう言われるのです「見よ、わたしはあなたより先に使者(ヨハネ)を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」(3:1)。つまりヨハネが来て準備したのはわたしの道だと言われるのです。わたしが主、あなたの神、あなたの出会うべき、あなたを裁きから救いに来た十字架の神であると、未だイエス様に弟子として、はいとお従いできない群衆に、神様が向き合われる。
では私たちは誰に向き合うか。例えば礼拝で説教を聴く時、説教者に向き合うのか。人を見て、あの人は強いとか弱いとか、たっすいとか。ともすると、ここでイエス様も洗礼者ヨハネの評判を挽回させようと、ヨイショして、女から生まれた者で、ヨハネばあ偉大な者はおらんぜと、人のことを言いゆうように誤解しやすいかもしれません。ならその直後、「しかし天の国、つまり神様のご支配の中で最も小さい者でも、彼より偉大だ」と、持ち上げて落とすプロレス技みたいな話をされたのか(笑)。そうではない。人間のことでなく、むしろ礼拝も救いも人間の話にして、神様に向き合わない私たちを救いに来られた十字架の裁きのご支配に、向き合わせておられるのです。
何でヨハネが偉大なのか。全ての人を償って死にに来られた、十字架の神様の先駆者だからです。ヨハネ自身の人間性や行いが偉大だという人間の話ではない。これまでの預言者も律法も、確かにこのイエス様を指し示し、預言して、この神様の犠牲による救いのご支配を待ち望め、信頼して良い、そしてその信頼関係の実を、実際にこの神様の民として歩むことで世に証しせよと、一貫してキリストを指差してはきたのです。が、洗礼者ヨハネは、人となられた神様が罪人の代わりに裁かれて罪人が救われる、十字架の救いのご支配の洗礼を、その神様に!授けられた直接の、十字架のキリストの先駆者なのです。確かに、罪の裁きを神様ご自身が受けられて罪人が赦される、その救いのご支配が言わば旧約の預言者たちのようにボンヤリして、裁きはどうなったが?と葦のように揺らいだ。でもその弱さを完全に引き取られたキリストの先駆者だから、偉大だ、大きい、その十字架の大きさの故に大きい。
ならばその十字架の神様のご支配に身を寄せた、最も小さな者は尚のこと、こんな小さな私を神様は十字架で背負い切って下さったと、その天の国、十字架の救いの神様のご支配の大きさを、そうだ、それが神様の憐れみのご支配だ!と、大きなイエス様に背負われて指し示すから、大きい。だから人間の大きい小さいで考えたら、ひとっつも、わからん。でもそれが神様でしょう。神様を!信頼するということでしょう。
なのに洗礼者ヨハネが、この神様に向き直る悔い改めの洗礼を授けているのに、自分は洗礼を受けたからとか、自分は努力して律法を行っているからと、人間人間人間が神様のご支配を力づくで奪い取って、洗礼さえ自分の行いのように奪い取って、だから救われるでしょうと。神様のご支配も自分が何をしているかもわからない、罪に支配された人間を、どうしたら良いのかという人間を、だから神様が!本当に死に物狂いで、罪も死も火の裁きも奪い取りに来られて、わたしが主、あなたの神だ、あなたにはわたしをおいて他の神はないと招かれる。その神様の、死ぬほど柔和で謙遜な救いの言葉を、あなたは聴きなさいと呼ばれるのです。