マタイによる福音書11章2-6節、イザヤ書35章3-7節「考えたち揺れる、人は葦」

24/8/4主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書11章2-6節、イザヤ書35章3-7節

「考えたち揺れる、人は葦」

イエス様につまずく。土佐弁だと、イエス様でかやると言うのでしょうか。おっと言うて、かやったら大怪我もするかもしれませんし、腹を立てる人もおる。もうイエス様らあ嫌い言うてバブれて、どくれる人は、きっと小さな子供だけではない。この時に牢獄に閉じ込められちょった洗礼者ヨハネが、弟子たちに託してイエス様に尋ねた言葉も、あるいはそうかもしれません。あなたのなすべき裁きは、どうなったがですか?あなたを疑う気持ちにさえなってしまいそうです。あなた、来るべき救い主、キリストながですよね。それとも、私の勘違いなだけで、他の人をキリストとして待たないかんがですか。どうながですかと。

私たちも、そうやって祈ることがあるかもしれません。どうしてこの苦しみから私を救い出してくれんがですか。どうして祈ったことが実現せんがですか。聴いてくれてないがですか。聴いてくれゆうけど、無理なことを私が言いゆうがですか。私が間違うちゅうがなら、どう祈れば良いのか、どう信頼すれば良いのか、教えて下さいと。

その時に大切なのは、イエス様に向き合うことです。嫌々でバブれた、貧しい不満な心であっても、ここが急所です、神様ですからご存じです。隠すのは無意味です。しかも、いかんとわかっちゅうのに不満になる罪も弱さも、十字架で受けとめて、背負って、全部赦してでも、あなたと一緒に生きていきたいから、ついてきなさい、わたしを信頼しなさいと、十字架の愛で向き合い続けて下さっている。そのイエス様に、不完全で弱く罪深いまま、ありがとうございます、けんど心がグチャグチャです、貧しい私を憐れんで下さい!と主に向き合って、ついていけばよい。

その反対が、つまずいて痛いがをイエス様のせいにして、イエス様がこうしてくれんきや、もう知らん、ついていかん。それが「つまずく」という言葉の意味ですから「わたしにつまずかない者は幸いだ」と主は言われる。だってそのために神様は人となられたのです。あなたの罪を赦して幸いに共に生きたい。そのために!代わりに死にに来たのだから、あなたの全てを受け入れる。そのわたしを受け入れないなら、あなたはどうやって幸いになるのか。幸いになって欲しいのにと求められる愛の苦しみが、神様の十字架の苦しみだと言っても良いのです。

もし自分が間違っているならと、洗礼者ヨハネのように、イエス様に向き合うところに幸いがあります。実際のつまずきとなっていた、自分の勘違いや間違いが取り除かれて、そこから本当のキリストを知って、憐れみの主を信頼して(9:36)、安心して救われる幸いに生きられる。

ヨハネの場合、その勘違いは、キリストがすぐにでも火の裁きの洗礼を罪人に与えるはずだから、早う悔い改めなさい、木の根元には、もう斧が既に置かれちゅうからと。うんと大胆に言うと、十字架がぼやけたキリストを思っていた。仮に!十字架なしでも、罪を悔い改めて神様に向き直る人にはキリストが聖霊による洗礼を授け、逆に悔い改めないで自分の道は正しいと神様でなく自分に向き続けている罪人には火による裁きの洗礼をキリストが授けるから、悔い改めて救われよと(3:7-12)。

でも案外これと似た勘違いをする人が多いから、この御言葉があるのでないか。また逆に、赦されるなら悔い改めなくてもと自分の道を行きキリストに向き合わない人も多いから、この後の7節以下の御言葉で主は悔い改めない人々をお叱りになられるのではないのか。じゃあどっち?と、もし!思われる人がおられるなら、だから!イエス様に、私の罪を背負われて代わりに裁かれて死なれた、あなたが私の唯一の裁き主です、その十字架の裁きにすがる以外、私には神様の正義の裁きからの救いはありません、イエス様!あなたが私の救いですと、主に向き合うのです。単に裁きを思って、悔い改めようとか、単に洗礼を受けたら救われるがやろうと、十字架がぼやけて、何で神様!が死なないかんかったのかが見えん心の目には、自分の気持ちや思いや恐ればかり見えて気になって、その自分の気持ちに反することが起こった時、実際は自分につまずいたのに、神様のせいにして自分を守ろうとする。キリストに向き合わないことで自分を救おうとする。最後には群衆が十字架につけろ!と叫んだ自分自分の激流に、じゃあ誰が逆らってでも、自分の不満や恐れや不安でグチャグチャな自分から、神様に向きを変えてイエス様に向くのか。それが悔い改めの洗礼者ヨハネが最後に遺したグチャグチャな自分からイエス様に向き合うという、救いの悔い改めの遺産です。その私たちを十字架の羊飼いが神様の命と引き換えて裁きから救われるからです。

そこでヨハネが聴いたのは、この福音書8章9章で主がなさった数々の癒し、全て旧約で預言されていた憐れみの御業、神様の到来の徴でした。しかもそこで約束された「敵を打ち、悪に報いる神様」(イザヤ35:4)が、十字架の裁き主として来られたから!主は言われるのです「貧しい人が福音を告げ知らされている」。心の貧しい、悔い改めさえ貧しい者たちも、わたしがその幸い、福音だから、わたしを信じなさいと招かれるのです。