マタイによる福音書11章1節、イザヤ書8章5-10節「弟子たちにより主が!」

24/7/28主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書11章1節、イザヤ書8章5-10節

「弟子たちにより主が!」

インマヌエル。神様が私たちと共におられる。人となられた十字架の神様が私たちと共におられる。それがこの福音書の全体を貫く福音中の福音、私たちが伝え、また私たち自身これによって生かされ生きる救いの知らせです。だからここでもイエス様は、弟子たちを伝道に遣わされながら、でも実はイエス様ご自身が、弟子たちの内で、弟子たちと共に、インマヌエルの御業をなさったのだ。それがイエス様の弟子たちである、あなたがた!の主に遣わされて生きる命だと、御言葉は約束するのです。

主は弟子たちを遣わすのに必要な指示を10章全体で終えられました。行き渡った指示を終えられたという言葉です。言わば聖餐式のパンも杯も与え終わって、さあ行きなさい、わたしを伝えに!と言われゆうのに、もう一杯。いや指示は、おしまい(笑)、行きなさい。そんな感じです。

でもそこで立ち上がる私たちとイエス様は一緒に行って下さるのです。そして弟子たちが担うことで伝える救いの十字架を、共に担われ、共に伝えて下さる。だから、さあ立ち上がりなさい、自分で背負いゆうがやないき、わたしが共にいて担い、背負い、救い出すと、本当に共にいて下さって、本当に私たちは派遣されていて、だから本当に用いられる。だからこそ予め指示されていた困難の中でも、主が共におられる。

ちょうど十年前の夏、夏期伝道実習生を迎えて、当時は夏の一大伝道事業であった中芸トラクト伝道に行った時です。ちょうど新しく会堂も購入して、さあ打って出るぞ!という意気込みを込めて、奈半利の一軒一軒の家を訪問し、挨拶して、特別伝道集会の案内を手渡す、いわゆるdoor to door伝道を行いました。とは言いながら私も初めてのdoor to door。古い民家の開けっ放しの玄関に、ごめんくださいと声をかけて、返事がなかったら内心ホッとしてトラクトを玄関に置く。でも夏期伝生の前ですから、それは顔に出さず(笑)、炎天下、挨拶回りをしよったら、入って来られたら嫌やき門を閉めちゅうに、わざわざ開けて入ってくるらあて失礼やと思わんがかと、すごいおばちゃんに叱られた。しもうたと思いましたが、中芸に教会が立つため代表の一人としてイエス様から派遣されたのだから、十字架の柔和で謙遜なキリストの代理だからと、その時に自分がどんな顔してお叱りを受けたかわかりませんが、柔和に謙遜にと、一所懸命、その人が言われることを受け止めて聴きました。

もし相手が律法学者・ファリサイ派なら、聖書は何と言っていますかとイエス様のように逆に問うこともあるかもしれませんが、おばちゃんファリサイ派やないので(笑)。むしろ神様の憐れみの義しさである律法を知らなくて、キリストを知らなくて、だから自分が何をしているのか、わからないから、何であんたたちは、と言いゆうのですから、屠り場に連れていかれる羊のように十字架を担って聴いた。でもうつむかないで、真っ直ぐその人の顔を見て、主よ、憐れんで下さい、私たちと共にいて憐れんで下さいと祈りつつ、言われるがまま聴いていました。

そしたらその方の吊り上がった目と眉毛の角度が下がってきて、まあ、けんど、あんたらあも仕事やきねえ、こんなに暑いにねえ、ここは色々変な人らあも来るき門も閉めちゅうのに入ってきて思うたけんど、違うみたいなねえ、それ配りゆうがかえ、見せてみてと、私たちを受け入れてくれて案内も受け取ってくれて、私は奇跡かと思いました。ひょっと一杯の水さえ受けたかもしれんと思うのは私の記憶の暴走か妄想(笑)の気がします。この方が、もし中芸のクリスマスコンサートに来られていたら嬉しいのですけど、わかりません。中芸での礼拝につながってはおられません。けれど今日の御言葉から教えられ、わかっているのは、そこでイエス様が、その日、中芸の町で、イエス様の弟子たちによって共に宣教なさっていたことです。天の父の救いのご支配、インマヌエルの救いが、イエス様の弟子たちによって、ここに来ていると、イエス様が宣教された。数や実績の形で見える実りはなかったとしてもです。

ここで弟子たちの派遣は一応一区切りです。この後は、でも期待した実りとは別の結実に、洗礼者ヨハネさえ信仰が揺れて、群衆は飼い主のいない羊たちのように多くの患いに打ちひしがれて、イエス様の招きに、はいと立ち上がって従えなかったという人間の弱さが改めて語られます。そしてその弱さを、その私たちと共にいるために人となられたイエス様が深く憐れまれて、すべて疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさいと、それでも招かれる。招き続けられ、担い続けられ、やがて群衆から「十字架につけろ」と叫ばれても、その十字架であなたの罪を担う、わたしは主、あなたと共にいるあなたの神だから、わたしのもとに来なさいと招かれる。その主が「全ての民をわたしの弟子にしなさい」「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:19f)と私たちを招かれるのです。うまくいく保証はない。でも、インマヌエルの主が、弟子たちと共に伝道して下さる保証があるから、私たちは立ち上がり、主と共に主によって世に遣わされ出で行くのです。