マタイによる福音書10章40-42節、エレミヤ書1章4-10節「小さくても神様の代理」

24/7/21主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書10章40-42節、エレミヤ書1章4-10節

「小さくても神様の代理」

小さな弟子に差し出される小さな一杯の水には、大きな主の憐れみが注がれている。その大きさをあなたは見てよいと御言葉は約束します。

ただ、こんな暑さが続くと、一杯の水の価値が異常に高騰しそうなので(笑)念のため、これは水をくれたら救われるという話ではありません。

「報いを受ける」という言葉が3回繰返し強調されます。「報い」とは、働きの結果、与えられる「報酬」のことです。その反対に、神様の死による償いの結果、与えられる救いは、憐れみであり恵みだと、報いとはハッキリ区別されます。もしその救いに「報い」があるなら、私たちの罪を代わりに償って死なれた神様を、キリストを、人々が受け入れる時、あなたが救われて、報われた、死んで良かったと喜んでくださる。

そのために私たちは十字架の神様を、この大きな救いの憐れみを人が受け入れてくれるようにと、主から遣わされ伝道しています。でも伝道が、報われないと思うこともあるのではないか。あるいはその理由に、自分は主に従い切れてない、弟子として本当に小さな者だから、だから神様の愛を証しできないのだと思うこと、あるんじゃないでしょうか。こんな小さな者が伝道なんか、やっても無駄だと思ってないか。

でもその私たちの小ささを、罪をも十字架で受けとめてくださった、大きな憐れみの主が約束されるのです。そのあなたを誰かが、この人はキリストの弟子かと受け入れ、一杯の水を差しだしてくれるだけでいい、それはあなたを受け入れた徴だ、それは、わたしを受け入れたのだと。水を理由として救う話ではなく、42節で主がハッキリ言われるように「わたしの弟子だという理由で」この人は、あなたを受け入れたのだ。どんなに小さな者であっても、あなたはわたしの弟子だ。人々の救いのために、わたしが遣わした、わたしの弟子だと、小さな者をキリストの弟子として励まし、立ち上がらせてくださるのです。

実はもとの言葉には、誰の弟子かという修飾語はありません。41節の預言者も義人も、誰の言葉を告げる預言者か、誰の正義に生きる義人か、言われない。でも敢えて言わないことで、その当然の関係!が強調され、ならば、あなたは、どんな救い主の弟子なのか?と問われるのです。

それが、この10章の弟子の派遣の原点である9章36節に描かれます。主は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9:36)。群衆は神様の御言葉を聴いたのに、御言葉として聴けず、まるでイエス様が救い主ではないように、飼い主がおらん羊のように「弱り果て、打ちひしがれて」、イエス様の招きに、弟子として、はいとお従いできない。その弱い羊たちを!背負い償って受け入れるために死にに来られた神様に従う、深い憐れみの弟子として、人々に伝えるのです。私もこの大きな憐れみに救われた小さな者ですと。憐れみ深いキリストに倣い従う弟子として、人々に向き合う。

その反対が「人に見てもらうために自分の義を行って、天の父からの報いを持たない」偽善者だからと主は注意されました(6:1)。こんなに自分は信じている、こんなに従っていると大きな自分を見せたい自分。でもその自分は捨てて「自分の十字架を担って、わたしに従わない者は、わたしに相応しくない」そんな救いはわたしの救いではない、あなたはわたしに従いなさいと招かれるキリストに、従う。ごめんなさいと従う、小さい弟子でいい。このキリストの弟子として、このキリストを人々が受け入れるよう、十字架の憐れみのもとで、弟子として生きればよい。

その小さな私たちを、イエス様の「弟子だという理由で」受け入れて、一杯の水でなくてもいい、小さな行為に現れる、小さくキリストを受け入れた人でも、その小さな信仰の行いに対する報いを受けると主は言われるのです。直訳は「彼の報い」つまり「弟子の報いを受ける」と。

報いを「受ける」という言葉は、38節で「自分の十字架を担って」と訳されたのと同じ言葉「しっかり受け取る」という言葉です。主がその御手から!与えられるから「必ず」。直訳は「弟子の報いを失うことには決してならない」。最後の審判を描く25章では「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」だと主は言われます。ならば主がご自身の弟子に授けられる弟子の行いに対する報いを失うことは決してないと、主ご自身が約束されるのです。

無論、誤解を恐れながら(笑)言えば、それを洗礼を受けない理由にすることは、洗礼を求められる十字架の神様より自分を大きくすることではないかと、主に向き合って欲しいのです。また、その逆に、これをせな救われん、自分はしたと思う態度も私たちは捨て、むしろ、そんなにも自分自分の小さな私をも、主が、わたしに従いなさいとキリストの弟子として遣わされるから、その憐れみに、はいと倣い、従うのです。人々の救いのために自分の十字架を担う、憐れみの姿勢、信頼の姿勢、自分を捨てる姿勢で、深く憐れまれる主に!従っていく。その道の先に必ず、自分を捨ててキリストに生きる愛への報いがあるからです。