マタイによる福音書10章34-39節、ミカ書7章1-7節「誰の愛が義だと選ぶか」

24/7/14主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書10章34-39節、ミカ書7章1-7節

「誰の愛が義だと選ぶか」

選ぶことを、聖書は「愛する」と言います。例えば、神様を礼拝しに来ることを選ぶ。その名を愛と呼ばれる神様は、あなたはわたしを愛しに来てくれたと、喜んで礼拝を共にして下さいます。

ただ、礼拝するために来たのか、目的は他にあるけど結果として礼拝しに来たのか。来た人のことを知らんと、見分けにくいかもしれません。34節以下のイエス様の言葉も同じです。直訳は「わたしが地上に平和をもたらしに、来たと思ってはならない。平和をもたらしに来たのでなく、むしろ剣を。何故ならわたしは二つに分けに来たから。」つまり家族の内、息子、娘、嫁がイエス様に従うようになって、親の宗教とかに従えなくなったら、今でも刃物を持ち出して迫害する家族がいる。そんなことのために神様が来られたのではないのに!愛よりも暴力を選ぶ人がいる。

前にイエス様は「医者を必要とするのは病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである」と言われました(9:12f)。自分は正しい病の人は、医者を憎む傾向があると言うか(笑)、私も歯医者に座って、ぁぁ医者が痛みを与えるために来た(笑)。確かに痛みはある。でも癒すため。命を失わせないため。それが目的です。

でも私たち罪人は、何が病んでいるって、愛が病んでいる。選んではならないほうを愛し選ぶ病に。だから、神様の愛の義しさは厳しいと、選ばれなくて憎まれて、それでもご自分を捨て愛し救われるイエス様を、はいと選んで愛するのと、自分なりの家族愛と、どちらの愛を私たちは選ぶか。けんど、イエス様を愛さんでも、えいがやないがと、考え方が病んでしまう誘惑を、知らない人はおらんと思うのです。

でもこれは、神様が死にに来られたほど厳しい病との闘いなのだと、医者が言われることを選ぶのです。「わたしよりも」と主が言われたのは「わたしに代わって、わたしの場所で」という言葉です。譬えるなら、私の妻のみがいるべき場所に、他の女性がいるのを選ぶなら、私は妻に相応しくない。もしどんなにその人への愛着が強くても。その場所には、妻しか相応しくない。おわかりと思います。それが救い主の場所です。

続く38節で「自分の十字架を担ってわたしに従わない者」と言われた言葉は、後にイエス様がペトロに対して「あなたは神様のことでなく、人間のことを考えている」と言われた時に「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と繰返される招きです(16:23ff)。死にに来られた神様のことを考えないことが、自分なりの愛は正しい、自分の考える救いで救われるろうと、十字架の愛のイエス様の場所に、別の救い主を連れ込むことになる。だから、その自分を捨てて、自分の十字架を担って、自分の思いではなく、父よ、あなたの救いがなりますようにと選んで、わたしについてきなさいと主は言われるのです。

楽な愛し方を選びたい、自分が選ぶことが正しいと信じたい病人です。でもそしたら、自分の思いがならないと、何でと思って、従ったのに、神様が悪いと、自分中心に思う。その自分を死なせる、自分の十字架を担って、わたしについて来なさい、その十字架ごと、わたしがあなたを担っているから、わたしについて来なさいと、主が招かれるのです。

何のためにか。自分で選べる命を、自分の人生に見いだすためにか。そのために神様は死にに来られたのか。その命は失われると言われます。むしろ、そのあなたたちが失われないために来たと、担われるのです。

その痛みを考えることが、神様を考えること、十字架の救いを考えることだと言って良いと思います。何のための十字架かです。痛みがあるから嫌なのに、苦しくないはずがないのに、避けたいのに、だからこそ神様が逃げないで私たちを十字架ごと背負われて、あなたが失われないためならいいと、逃げないで自分を捨てて償って下さった。その十字架の愛を選ぶのです。命を選ぶためです。それがイエス様のために、直訳は「もう自分の命を失った者は、やがてそれを見いだす」。「探しなさい、そうすれば見つかる」と主が約束された同じ言葉です。死にに来られた神様のことを考え、何で神様が苦しんで死ぬのかと探し求めるのです。そうすれば見つかる。家族をどうやって愛すれば良いかも。家族のため、命を捨てて下さった神様のために、十字架の愛が救うからと選び信頼し、自分の命を差し出してしまった者は、やがてそれを見いだします。

自分を捨てる愛を担っている時は、苦しくて、神様は何で私にこんなことをするのかと自分自分が暴れても。その私たちのために命を捨てられた三位一体の御子が十字架の苦しみを共に担われて、我が神、我が神、何でわたしを見捨てるのですか、見捨てないで下さい、助けて下さいと、私たちの苦しみも悲しみも死ぬほど担われていると信頼して良いのです。そしてこれは十字架です。イエス様のための十字架だから、その私たちの十字架を、主がご自分の愛の十字架の奇跡の中に選び取り、主の愛に従って愛する家族の救いのために、聖め用いて下さると、泣きながらでも信じて良い。そのために来られた主を選び愛して良いのです。