24/7/7主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書10章32-33節、詩編22篇20-32節
「主の礼拝は神前で人前」
暑い中、何で私たちは礼拝に集うのか。また礼拝後にはトラクト配布に行きます。前に夏期伝生が暑すぎて郵便ポストに配布してました(笑)。そんなに苦労したち労力とお金の無駄って思う時こそ、思い出すのです。イエス様がどんな命の無駄をしに来られたか。苦労して愛した弟子から、あんな人知らないと何で目の前で否定されないかんかったのか。何故か。自分が何をしているかわからない罪人の、代わりに死にに来られたから。自分自分の罪で滅びに向かう私たちを十字架で受けとめて神様が死んで償うため。それがイエス様、あなたですと礼拝するために!その救いにお仕えするために、礼拝でも、遣わされた先でも私たちは、イエス様はこんなにも愛の神様ですと告白する。
それが「わたしの仲間であると言い表す」という言葉です。それは、先に告白した信仰告白を告白するという言葉。直訳は「わたしにおいて同じことを言う」。イエス様と同じことを人前でも言うのが告白です。
信仰の急所は、イエス様がおっしゃることと、同じことを言うかです。5章からの山上の説教で、主は十字架の神様でしか言えないことを言ってこられました。その言葉を、はい、信頼します、アーメンと、礼拝で、神様の御前で、そして人々の前で言う。それが信仰告白です。
主が御言葉を語られ、その御言葉の真実の内に命を投げだしてくださった。そのイエス様に、主よ、あなたの御言葉の内に、私も生きたいのです、助けてくださいと、イエス様において同じ言葉を言う。その人を、イエス様も天の父の御前で、わたしの父よ、この者は、わたしと信頼で結ばれた、わたしを知る者。わたしが命がけで愛した愛と信頼の関係で、わたしに結ばれ、わたしを愛し信頼する者。そのためにわたしを遣わされたあなたの子供ですと、その私たちの信頼の言葉と同じことを、父の御前で言ってくださる。それが、イエス様との信頼関係を「言い表す」告白するという言葉の中身です。
だから「天のわたしの父の前で」と、関係が!強調されるのです。
すぐ右29節では「あなたがたの父なしで、抜きで一羽の鳥さえも地に落ちることはない」と主は言われ、そうだろう?あなたがたは父の救いのご支配のもとにいるのだから、自分自分モードになって、まるで父がいないみたいに恐れるなと慰められた。今日の御言葉は「だから」その父を我らの父と告白する親子関係は、機械的な関係ではないと確認するのです。どうしたら三位一体の御子が「わたしの父」と呼ばれる方との親子関係の暖かな実感と共に、父の救いのご支配を人に伝えられるのか。それは私たちが人々の前でイエス様と同じ言葉に生きて、イエス様との信頼関係を告白することによると。更に言えばイエス様の言葉の一切が、我らの父との関係の言葉だから、父のお気持ちを思う父と子の関係を!抜いたら、父が御子を犠牲にされた御心も救いも伝わらない。
犠牲なし、赦しなしでは救われない。それが父と子の関係です。人間関係でも同じだと思います。形だけで機械的な、例えば、お金と言えばクレジットカードが届く破れた関係ではない。むしろそういう父抜きの宗教や信仰に陥った子たちを、失われた羊たち、失われた家族と言われたイエス様の父の子としてのお気持ちが、ここには溢れます。あなたは父との関係をどれほど思っているだろうかと。その父の御前に私たちを父の子として連れ戻すために命を捨てに来られた御子の、父との関係が「天のわたしの父の前で」と、行いでなく、関係!が強調されるのです。この関係の和解が救いだから!父との関係の救いがなければ、どれほど宗教的で祈り願う通りになって幸せでも、神様が命を捨てて取り戻しに来られた家族の関係に生きるのでないなら、主が言われるのは、あなたはわたしも、わたしの父も知らないのではないか、関係を持ってないのではないか、よく考えて欲しいと、関係を汚す罪を背負われる十字架の重みをもって迫って来られる。それがこの御言葉の特に後半の重みです。
人々の前で「わたしを知らないと言う」。この言葉の直訳は「わたしを否む、否定する」です。後にイエス様が十字架に架けられる時、弟子のペトロが、お前もイエスと一緒にいたと言われ「そんな人は知らない」と三回、イエス様との関係を「皆の前で否定した」(26:70)。それと同じ言葉が、敢えて用いられます。だから「否む」と直訳せず「知らないと言う」と訳したのかもしれません。え?否定した?三回も?じゃあ否定されること決定、そんな機械的な救いではないことを、機械仕掛けの神ではないことをこそ、本当に知ってもらいたいからでしょう。あなたはわたしを誰だと思うのか。誰だと告白するのか。そうだ、わたしは主、あなたの罪を背負って死にに来た、あなたの神だから、あなたにはわたしをおいて他に神があってはならない。嘘を作るな、あなたの父の前で、わたしがあなたを償った!そのわたしをこそ告白し、人々に伝えなさいと死ぬほど求められるキリストを、だから、はいと信頼し、告白する。十字架の赦しに背負われて、キリストと同じ言葉を宣べ伝えるのです。