マタイによる福音書9章18-26節、イザヤ書9章5-6節「憐れみ深い王を信じる」

24/4/28復活節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書9章18-26節、イザヤ書9章5-6節

「憐れみ深い王を信じる」

イエス様から、知らせたらいかんぜよと厳しく命じられちょったのに、むしろ、逆に言わな!ばあの勢いで、言い広めてしまった。まあお笑いの世界であれば、押すなよ、絶対押すなよというお約束がありますけど、目を開いて頂いた二人は、自分たちの口で、イエス様を「ダビデの子よ」と呼んで、王!を叫び求めておったのにその王の言葉に逆らうのです。

先のイザヤ書は、やがてキリストが来られるという代表的預言としてクリスマスに読まれます。やがて来られるの、神様としての!権威によって、イスラエルの王ダビデに約束された(サムエル下7:16)ダビデの王座による永遠の支配が固く立てられる!その王による支配あるいは王国Kingdomと訳された言葉が、主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈る、キリストによる天の父の御国、王のご支配です。

その意味で、私たちも、私たちをご支配されている十字架の王の名をイエス様!って呼びながら、あなたが命を捨てて!もたらして下さった、父の救いのご支配を来たらせて下さい、ここに実現して下さいと祈っているのです。なのに王であられるイエス様のご支配に、むしろ逆らって生きてしまっているところが、いや、けんど、と言い訳しながら生きてしまっている態度、姿勢が、きっと誰しもある。

この二人も、イエス様は御言葉が約束する救いの王だと信頼しておったから、「ダビデの子よ」、約束の王よ!と呼び、信頼してイエス様が見えないのに!「ついて来た」のです。「憐れんでください」と叫び求めながら。きっと憐れんで下さる、憐れみ深い王だからと信頼して、お姿が見えんのに、ついて行く。弟子たちがイエス様に「従った」、イエス様が「わたしに従いなさい」(9:9)と招かれたのと同じ言葉です。

この二人、私たちと何が違うでしょうか。またイエス様が、十字架の王として!私たちに求めておられることと、この二人に求めて問われたことと、何が違うでしょうか。二人はイエス様に「私たちをご支配される王よ、憐れんでください」と叫び求めた。それに対してイエス様は、「わたしはそれを成し遂げる(イザヤ9:6)ことができると、あなたがたは信頼するのか」と、イエス様を信頼する!信仰とは、一体どのような信頼であるのかを、ハッキリさせられる。あるいはその通りの信頼関係で、いつも、わたしについて来なさい、従いなさい、わたしは確かに、その信頼に足るあなたがたの王、十字架であなたを背負い切る王だから、そのわたしを!あなたが信頼しているか、それを、自分でも見ることができるようにと、私たちの目に触れ、目を開き、見させて下さっている。私たちがイエス様に何を求めているのか。どんな王のご支配を信頼して「はい、主よ」と、お従いしているのかをも、主は、私たちの目を開き、見させて下さる王なのです。

自分の姿も見えない。それが見えるようになって、では何が見えるか。あれ?イエス様が見えなくても従っていたのに、何故か従わない自分が見えるようになる。それが痛みをもって私たちの知る自分たちの姿ではないかと思います。そして、その痛み、イエス様を信頼してお従いしてないわけではないのに、従ってない弱さと罪の痛みを、十字架の王は、深く憐れまれ、それでも、それだからこそ!導きご支配してくださる。

そのイエス様の王としてのお姿が、左上36節では「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と、憐れみ深い羊飼いである王のお姿が克明に刻まれます。群衆。先週の24節でイエス様が「少女は死んだのではない、眠っているのだ」と、その少女の罪と死を贖われる王として言われた言葉を、上からあざ笑う群衆を、でもイエス様は上から笑わず見下さず、深く心痛めて憐れまれ、その罪と滅びから、わたしは死んでも彼らを救い出さなければならないと十字架に向かわれる。そのイエス様に、この後も群衆は、迷いながら疑いながらもついてきて、十字架につけろと叫んでもしまう。でもその彼らをイエス様は、父よ、彼らをお赦し下さい、何をしゆうかわからんがですと、泣いて天の父に執り成される。それが私たちのために自分を捨ててご支配なさる憐れみ深い王イエス様であり、そのイエス様にこの二人も、私たちも「はい、主よ」と信頼して、お従いするのです。

主は何ができると信頼するのか。十字架で罪人の代わりに死ぬために人となられた人の子は、罪人の私たちを憐れむことがおできになる!と信頼する。イザヤがイエス様を預言した通りに、その平和のご支配を、主はご自身を捨てられる愛と憐れみの熱情によって「成し遂げる」ことがおできになる!と信頼する。そうだ、あなたはそれがわたしだと信頼するかと、神様であられる永遠の王が問われるのです。「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」(出エジプト20:5)と宣言される主が、あなたはわたしのものだろう、信頼せよ、それがわたしだと、人が神様にお従いすることを求め愛してあきらめない。その十字架と復活の王に向き合って「はい、主よ」と信頼し、共にお従いすれば良いのです。