24/3/17受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書8章23-27節、詩編46篇
「不意の嵐も信頼の中で」
風や湖さえも「聴き従う」という言葉です。人の子の権威をお持ちのイエス様が、風と湖とをお叱りになった。おそらく、ほたえな!(笑)と言われたら、風と湖が、はいと聴き従った。
私たちはどうでしょう。はいと主の御言葉に「聴き従う」弟子として、イエス様の前に出て、主にお従いするから、主を礼拝しているのに違いないのですけど、風や湖の如く主に聴き従っているか。そう問われると、逆に心が波立つかもしれません。自分は弟子と呼ばれるのには相応しくないと感じるのは、いや自分は相応しいと高ぶって、ほたえな!と主に叱られるよりは良いのかもしれません。が、問題は私たちがイエス様と、どんな関係をもって、常に主であられるイエス様と共にいるか、です。
先に聴いていて気づかれたかと思いますが、この御言葉に出てくるのは、舟に乗り込まれたイエス様と、そのイエス様に、はいと従って舟に乗った弟子たちだけ、なのに!その弟子たちのことを27節は「人々は」と呼ぶ。まるで、え、イエス様にお従いしゆう弟子たちやに、何ちゃあ他の人らあと違わんがやない?イエス様のこと、わかっちゃあせんがやない?という言い方です。でもそこが急所なのです。
この御言葉は、すぐ前の御言葉とセットになった続きです。イエス様を「先生」だと思い、先生の教えに頑張って従えば救われると誤解する人のため、主はご自分を「人の子は」と呼ばれました。いと高き神の子であられるのに、人の罪と裁きと滅びを身に負い代わりに死なれる低い弱い人の子として、神様が人となられ私たちを救いに来られた。だから21節では、死んだ父を葬る必要より、その死をも背負い死にに来られた主が先ず必要だから、その順番を間違えんように、イエス様を「主よ」と呼ぶ「弟子」に、主は「わたしに従いなさい」と言われたのです。
その直後が今日の御言葉です。舟に乗られる主に、はいと従った弟子たちが、ではイエス様をわかっておったか。人の子であられる十字架の主に、はいと従った弟子たちと、どのように共におられる主イエス様であられるかを、それを、今ここで主に従い、主を礼拝している私たちも、わかっているかと問われたら、わかってない現実が皆あると思うのです。そうやって昔も今も、イエス様を主よと呼んで従う弟子たちの歩みが、リアルに描かれているのが、この御言葉です。
主に従った「弟子たち」に嵐が起きる。直訳は「大きな揺れ」が起き、信仰が揺さぶられます。例えば、主に従ったら無事だと思うご利益信仰の誤解に人はいつも弱い。だから24節の「それから」の直訳は「そして、見よ!」です。主に従ったのに、何で苦難に遭うのかと誤解する「薄い」直訳で「小さな信頼」は、見よ!大きく揺さぶられます。そして人の子であられる主と御言葉に、信頼するよう助けられます。神様であられるのに低く、弱い、人の罪と死を負って死にに来られた大きな主!に信頼する、信頼関係の信仰へと、小さな信頼や不信仰から救われるのです。
弟子たちが改めて「主よ」と叫び求めた後の直訳も「救って下さい、私たちは滅びます」です。その滅びを代わりに引き受けるために人の子となられた主が、わからなくて、まるで何で救ってくれないのですかと訴える弟子たちの信仰に対する答えが、「信頼が小さい」なのです。
主に従う者たち、主から「わたしに従いなさい」と招かれて、はいと身を委ねた人が、何があっても滅びないために!そのために天の父から、子よ、あなたが代わりに裁かれて死ぬようにと命じられ、はいとお従いされて人となられた主が、わたしがあなたを滅ぼさない!と永遠の滅びから救って下さる。私たちの小さな信頼が大きく揺さぶられても。不意の嵐で命が揺れ落ちるようなことがあったとしても。その私たちの命も死も大きな罪も完全に引き受けて死なれた主が、あなたは滅びない!と、死の陰の谷を行く時にこそ、共におられる神様だから(詩23)。十字架と復活の神様だから。そのイエス様の大きさを、はいと信頼する信頼関係を主は弟子たちに求められるのです。
わかって欲しいのです。あなたを滅ぼさないために、あなたを滅びに向かわせる罪から救うために、わたしは全てを捨てて来た、あなたの主、あなたの神なのだと、信頼して欲しいのです。その信頼関係が薄くて、イエス様に従い、洗礼を受けたのに、どうしてもそれがわからんぐらい小さな信頼で、嵐に揺さぶられてばかりの信頼の小さい弟子であっても、その最も小さき者を、ずっと背負い続けられて決して見捨てられない、共におられる神様がイエス様だから。そのイエス様だから言われるのです。「なぜ怖がるのか」わたしがあなたを見放すことはない、信じなさい、わたしはいつもあなたと共にいる、死んで滅びを支配する、あなたの神だからと、信頼を求められる。それが名を愛と呼ばれる神様だからです。
なぜ怖がるのか。言い換えれば、勇気をもって信頼して欲しいのです。信頼すればこそ、嵐の時は、主よ怖いです、不信仰からお救い下さいと、すがれるイエス様の、弟子として、主と共に嵐を越えて行くのです。