23/11/19主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書6章24節、詩編49篇
「一途な心のクリスマス」
今日の1時いよいよクリスマスリース教室が始まります。今年は病気で妻と私が動けなかったため、毎年奉仕されてきた教会員たちがメインで準備されました。昨日も朝から集まって奉仕しておられ頼もしく思いました。交通費が出る訳ではありません。奉仕した時間に応じての謝礼も出ません。すべて、これは、主がご自分の教会を用いてなされる伝道の働きなのだと信じて、身も時間も交通費も、主にお献げされた。今日の御言葉に先立つ上の20節の言葉で言えば、天に宝を積んだのです。この後も、神様に、自分を具体的にお献げするのです。
今日の御言葉で「一方に親しんで」と訳された言葉。これは「献げる」「尽くす」とも訳し得る言葉です。親しむと言っても、単に仲良く会話したりするだけでなく、その他方は「軽んじる」あるいは「下に思う」のですから「親しい関係を重んじる」と言っても良いのです。その直訳は「向かって持つ」。何を持つか。相手に自分を向かわせる関係を持つ。向き合う関係、相手を重んじて向き合う親しい関係を、神様!と持つ。それが神様に「仕える」ことだと主は言われます。
神様にお仕えする奉仕は、無論リース教室だけではありません。毎週オルガンの奏楽が礼拝に響く。室戸教会でヒムプレイヤーを用いて主を賛美した後、帰ってきて、夕拝でオルガン奏楽での賛美を献げながら、何とも贅沢な礼拝の恵みであると主を賛美します。練習の時間や気力は、他の何かに使うこともできる時間と気力です。持て余す富から一部献金するのではないように、自分にとって大切な時間やお金を、他の何かに使わないで、神様のために、これはあなたのものです!とお献げする。その時、私たちは神様に親しく向き合って重んじる関係を持っている。神様に、あなたを愛していますと奉仕していると主は言われるのです。
祈りのために時間と気力を捧げる時も。礼拝のため時間と気力と富を聖別する時も。他のためにも使うことのできる自分のものです。でも他の何かを愛するより、神様を愛し、重んじて、御心がなりますようにと自分を神様にお献げする全てが、神様に「仕える」奉仕である。それを共にわきまえたいのです。リース教室を行う唯一の理由も、人々を教会にお連れし、礼拝に、キリストのもとにお連れすることです。その人を死ぬほど愛される神様の救いを知って欲しい、キリストに出会うための入口です。それと同じ理由で、例えば、子育てをして、家族を愛する。仕事をする。キリストの救いがなされるために色々と耐え忍んで、祈りながら、神様に親しく向き合って、キリストの救いを重んじる愛に、奉仕に生きる。それがどうして神様に仕える奉仕でないでしょう。
何のために自分は生きているか。何のために自分の大切な時間、気力、お金、求めを献げているか。それは、ええ…あれのためと…これのためと、と分けられるものではありません。主はここで、愛を語られます。自分を献げてしまう愛、アガペ―です。あれもこれも愛しているという、結局は自己愛を満たすための手段ではなくて、あなたはその自分を献げるほど愛する相手を、どこに持って向き合っているかと問われるのです。これが私の愛ですという、自分の捨て所を問うておられるとも言える。その愛が私たちを支配し、私たちを所有するからです。
この「仕える」は、丁寧に訳せば「主人に所有された奴隷として仕える」という言葉です。聖書には他にも「給仕する」という意味で「仕える」と訳す言葉もありますが、それは必ずしも主人に所有されてではなく、雇われて仕えることもありますから、イエス様が問うておられる急所は別なのです。僕として人に仕える態度も重要ですけど、問題は、あなたは誰のものとして生きているか。誰のもとに自分の幸いを見て、自分を献げ、そこに保証を見出して自分を与えているのか。神様にもだけど、他にも自分を与えているというのは、愛ではないと主は言われるのです。一方を憎み他方を愛するとは、ユダヤ的表現で、どちらかを選ぶことになるという意味です。あなたのためなら死んでよいと、ご自分の捨て所を私たちの救いに、私たちと共に生きる愛と救いとに選ばれた、神様のものとして、神様の所有に、はいと身を献げ、信頼し安んじて生きるか。それしかないじゃないか。神様にも他の何かにも所有されて生きることはできない、できないだろう、そうじゃないかと主は言われる。わたしはあなたを重んじている、決して奴隷として軽んじてなんかないだろうと、愛の訴えをされているのがこの御言葉です。わたしは主、あなたの神、あなたを奴隷の家から導き出した、あなたの主人だと、そのためにいのちを捨てられた主ご自身が、わたしはあなたのものだから、あなたもわたしを選び、わたしのものとして生きなさいと求められるのです。
今年のアドベントは12月からですが、キリストが既に私たちのもとに飛び込んで来て下さり、私たちと共におられることを改めて覚えます。そして私たち自身を主に献げる、信頼と愛の奉仕によって、ご自分より私たちを選ばれたクリスマスの愛を、共に世界に証しするのです。