マタイによる福音書6章10節、ゼカリヤ書9章9-10節「十字架の王のご支配を」

23/9/3主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章10節、ゼカリヤ書9章9-10節

「十字架の王のご支配を」

「御国が来ますように」。もとの言葉は「あなたのご支配が来ますように」。つまり「天にまします我らの父」のご支配がなされますようにと、父のご支配を求める。父に「あなた」と向き合い、あなたのご支配を、ここに来たらせて下さいと求めるのです。私の支配ではなく。私の望み求めが今ここで行われることが正義の支配だという態度ではなく。そうやって人間が自分の正義と支配を求めては、罪の支配に陥る嘆きの地に、十字架の裁きの正義によって我らの罪に勝利される「あなたのご支配を来たらせて下さい」と、我らの父のご支配を祈るのです。

十字架の王は、祈りを、そのように教えて下さいました。その勝利の十字架を一心に見つめ、そのために、どんな犠牲が払われなければならないかを、我らの主としてお引き受けになられた王が導かれるのです。この祈りによって、わたしに従って来なさい。人間の罪に打ち勝たれる父の憐れみのご支配を、共に求め生きようと。

先に読みましたゼカリヤ書の御言葉は、復活の勝利を祝うイースターの前の週、受難週の主日に読まれるキリスト預言の御言葉です。「見よ、あなたの王が来る。彼は神様に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子であるろばに乗って」。白馬の騎士が颯爽と、というのではなく、重荷を担う、ろばに乗った、高ぶることのない王です。柔和で、謙遜で、あなたの罪を、わたしが背負おうから、わたしのもとに来なさいと。わたしがその罪に勝利して、あなたを赦し愛し抜く。誰にも文句は言わせない。その文句にわたしは立ち向かう。十字架で、すべての罪に立ち向かって、すべての罪に勝利するからと。全能の父なる神様の愛のご支配に嫌だと逆らう罪、自分自分自分自分!と高ぶるすべての人間の罪に、父よ、彼らを赦して下さいと、背負って勝利された主が招かれるのです。わたしのもとに来なさい、ここに我らの父のご支配があると。それが御国です。あなたもわたしと共に生きるようになると、三位一体の神様なのに死にに来て下さった王が、復活と永遠のいのちを与えに来て下さった柔和で謙遜な十字架の王が、本当はあなたも、この父の赦しのご支配、恵みのご支配に、生きて生かされて共に歩みたいだろうと、抱え、背負って救って下さるから、はい、と主と共に祈る。御国を来たらせたまえ!それがこの祈りです。

ならばです。主の祈りは、私たちの祈りを導くだけでなく、私たちの求め、生き方、また態度を導く祈りだと前に申しました。では私たちが、御子をくださった父にご支配されることを祈り求める時、どんな態度で祈るのか。そのことを、主は福音伝道を始められた時、こう言われたのです「悔い改めなさい、何故なら天の国が近づいたから」(4:17)。

天の国、神様のご支配が、ほらこんなにも近づいた。わたしはあなたと共にいると、御子が人となられた。そして人が自分自分になって神様の愛から離れてしまう罪も弱さも、人として引き受けられて、大丈夫だ、わたしが王としてあなたを支配する、父の愛の御心に生きるよう導くと、背負い赦してご支配くださる。だから、はいと自分を自分にではなく、イエス様にお任せする。それが悔い改めです。あなたにお従いしますと、御子をくださった父のご支配に、自分の求めも、すべてお委ねする。

もちろん私の心の求めは父に祈るのです。様々な必要、悪からの救い、具体的に、助けて下さいと求め祈るのです。でもそれらの求めを、私はこんなに求めているのに、どうして神様はわかってくれないのかという態度が支配的になってしまったら、その私は十字架で御子を犠牲にされた父のお気持ちをわかっているのか、イエス様の何をわかっているのか、私は自分が罪人であるのかをわかっているのかということになるのではないか。それでも、だって私が求めることがならないのなら、信じても意味がないじゃないかと、十字架の父と御子から差し出された信頼関係を破く、自分が!という態度が、どうしても支配的になって心が暴れるなら、その私の心に、御国を来たらせたまえ、悪より救い出したまえ、父のご支配を来たらせて下さいと、悔い改めをくださる、父のご支配を祈れば良いのです。そのために、犠牲となられた主が、わたしがあなたの神だから、あなたが支配してはならないと、救って下さるから、泣きながら逆らいながらでも、イエス様に背負われながら、御国を来たらせたまえと祈れば良い。自分では罪を支配できないから、支配していただくのです。自分では死なせられない罪だから、神様が死なれた十字架のご支配で、我が身も我が罪も、すべてご支配くださいと委ねるのです。罪の本性がむき出しになる時、自分は正しいと高ぶる罪が、祈りの態度あるいは祈らないという態度に現れる時、父よ、御国を来たらせたまえ、全能のあなたのご支配は、私より優れていますからと信頼し悔い改めて、そのご支配のもとに身を低くして自分の求めを打ち明ければよい。人が信じる以上に憐れみ深く、罪に厳しい父のご支配は、主が再び来られるのと同じように、確かに、私たちのもとに来られるからです。