マタイによる福音書5章33-37節、イザヤ書66章1-2節「心の真実を見る神様に」

23/6/25主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章33-37節、イザヤ書66章1-2節

「心の真実を見る神様に」

その悪を、だから全て十字架で引き受けて私たちを救われる神様に、アーメンと言う。自分でなく神様を信じる「はい」を献げるのです。

それが「然り」つまり「はい」という言葉だと言い直すとわかりよいでしょうか。では「否」は何か。この救いの神様に背く、罪に対する否。罪に誘う悪を拒否して、嫌だと、私は私のために自分を捨てて下さった神様に、はいと生きる。御言葉に、はい、アーメンと生きたいのだと、罪を拒否する、いいえ。それが、特に「誓い」の場面で私たちの問題となる「はい」と「いいえ」でしょう。

単に口だけで、心では罪に、はいと思いながら、神様に!アーメンと言うことはないと思います。人に向かってではなく、神様に向き合って、アーメンと言う時には。例えば何人かで一緒に祈る時、人の祈りを聴きながら、つい自分の頭の中で別のことを考えてしまい、皆がアーメンと言うのを聴いて、一緒にアーメンと言う時が私にもあります。その瞬間は口だけアーメンかもしれませんが、やはり心の中で、ごめんなさい、聴いていませんでしたと神様に向き合い直すのではないでしょうか。

イエス様がここで求めておられるのは、それがどういう状況での然りや否であれ、あなたは神様に向いているか。神様に向き合いながらの、はい、いいえ、を人前で生きているだろうか。わたしは、あなたに向き合って生きている。どんな時も。あなたが嘘を言う時も。そのあなたをわたしは死ぬほど愛して、悪から救う。わたしは主、あなたの神だから、どんな時も、あなたはわたしに、はいと向き合って生きて欲しい。共に生きて欲しいと求められるのです。

でも中々そう生きられない自分の現実もある。神様に向き合っている時はアーメンと言えるのです。心と霊が砕かれている時は。だけど心が自分の何かで支配されて、神様はそう言うけど、でも!と、心が神様を思ってはいても、御言葉が義しいと信じてさえいても、肉の弱さから、自分がしたい、あるいは自分がしたくない、だって自分はこうなるのが正しいと思うという方向に心が奪われると、アーメン「以上のこと」を、しかも、人に!言ってしまうこと、皆あるんじゃないでしょうか。

特に「誓い」が出てくる時は、自分の正しさを、人に信じさせたくて言うのです。そしたら思い通りになると。でも「主の名をみだりに唱えてはならない」から、天や地や、自分にかけて誓うのでしょうか。

私はそうやって誓ったりしないと思われる方も、それは単に神様の名を、出さなければ良いという問題でないことは、おわかりだと思います。あるいは誓わなくても、誓わなければ良いというのは、これまで言われてきた、殺さなければ、姦淫しなければ、心の中だけでバレなければと同じで、問題は心のなのです。神様に、はいと向き合うより、自分を通せ!と誘惑する心の悪が、あなたがたを死に至らせるほどの問題ではなかったかと言われる。その悪と死に、十字架の犠牲によって向き合われた主が言われるのです。

天にかけて誓う人には、そこは神様の玉座じゃないかと、神様を心が仰ぎ見るように言われます。地にかけて誓う人にも、そこも神様のと。誓わない人には、ならば神様に「はい」、人々が、あなたがそれをするのを見て、天の父をあがめるようにならない悪には「いいえ」と生きる、「世の光」として(5:13-16)、共に神様に向き合って生きていこうと。一貫して、神様の救いを信じて生きるとは、憐れみのご支配の中で救われて歩むとは、どういう幸いなのか。それは神様を神様として、はいと神様に向き合って生きる幸いだと、純粋で混じり気のない、神様の愛の真実を貫き通して、真っ直ぐに私たちに向き合われるのです。

そこで、だってと思う私たちにです。でもと思う自分。無理だと思う自分を、命を捨てに来られた神様の御言葉よりも信じるように誘惑する悪から、だから救い出したまえと祈るよう教えて下さった主が!私たちに向き合っておられるからです。神様よりも自分を通したい、だってが出る時、私は自分の悪に負ける罪深い自分だと打ちのめされるところで、その私たちを、私たちとの愛と信頼の関係を決してあきらめない愚かな神様が神様だと、それが十字架の神様なのだとアーメンと知るからです。その神様を神様として、はいと向き合う。だって、でもと、悪も私たちを支配しようとあきらめず出てきても、お前は私の神じゃない、お前は私のために死んではくれないで、だって、でもと言い訳して私を裏切る悪でしかない。しかし神様は悪に負けるこんな私さえ、あなたはわたしのものだと背負い切られて決して捨てない代わりに、自分を捨てられた神様だから、悪がどんなに、でもと言っても、この方が私の神様だと、打ち砕かれた霊と心が、アーメンと神様に向き合って救われる。それがこの山上の説教の最初で、心の貧しい人々に、神様の憐れみのご支配はあなたがたのものだと約束して下さった(5:3)十字架の神様だからです。

だから神様に、はいと生きられる。主が私たちの「はい」だからです。