マタイによる福音書5章21-26節、詩編133篇「最優先は共に生きる愛」

23/6/4三位一体主日礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章21-26節、詩編133篇

「最優先は共に生きる愛」

その償いの身代を、十字架で身代わりに支払うために来られた神様がおっしゃるのです。だから早く和解しなさい。先ず仲直りしなさい。罪で破れた信頼関係を、自分を捨ててでも修復しなさい。もし裁くべき罪が相手にあれば、それはわたしが裁く。その罪をも背負ったわたしが、死ぬほどあなたがたに求めるのは、あなたがたが共に生きる愛だからと。そのために自分を捨てられた神様がおっしゃるのです。

ここからしばらく、イエス様が「しかし、わたしは言っておく」と、律法の言わば常識的理解では律法が満たされないのだと、改めて律法を説き直される御言葉が続きます。その最初が「殺してはならない」と、神様が律法で求められる、そのゴールは何か?です。殺さなかったら、良いのか。そうでないことは、皆おわかりだと思います。でもそれが、自分の生き方の判断基準になってはないでしょうか。殺してないから、自分は正しいと。殺さなければ良いとは思わんけど、だって腹立つし、相手が悪いし、自分も悪くないとは思わんけど!という多くの、しかも主を信じる人が持つ生き方の態度に「しかし、わたしは言っておく」と、言わば非常識な生き方の基準を出される。譬えるなら自分は100点ではないけど80点やき、中の上やか、礼拝も出て、と勝手に考える基準に、もし誰かがあなたに反感を持っちゅうなら、先ずその人と仲直りして、わたしを礼拝しなさい。わたしが求める礼拝は、あなたがわたしの言葉を、はいと聴いて、その愛に、だから隣人と共に生きようと、わたしを愛すること。それが礼拝であり、生きる基準だろうと求められる。

そして何が神様の求められることかを示される一方で、何が死ぬほど神様が求められないことか!厳しく言われます。たぶん厳しく言わんと、でも!と、その死ぬほどの罪の重さを私たちが信じないからでしょう。神様が死んで下さったほど愛されている人に愚か者と言うのは火の地獄ほど重い。これも言わなければ良いという話ではない。その人への態度によって馬鹿にしたり、冷たく突き放して、あなたは神様にも愛されてないだろうという態度を放つなら、ではそのあなたは、わたしに愛されていると何故、信じられるのか、自分はそれほど悪くないから救われもするのか、地獄に行くほどではないからか、わたしの何を信じているのかと、十字架の神様から私たちは皆、厳しく問われるのです。

もし!神様の裁き、罪に対する厳しさが、私たちの代わりに十字架の厳しい裁きで地獄の火に焼かれたキリストの優しさを知る基準としてわかるのでないなら、自分の生きる基準が何故そこまで、神様の!愛の基準に従わないかんのか、わかりようがないとも思うのです。キリストが私のために死んで下さったから!それがわかっても人を馬鹿にする私の地獄の罪をキリストが引き受けて死んで下さったから、私は償われ赦され救われて神様と生きられる。ありがとうございますと生きる基準が、すべての人に、神様が父として求められる基準であるとわかって、生きるのです。自分もまた、赦されなければ救われ得ない罪人であると自分のこととしてわかる時、神様がわかる。その愛がわかる。その愛に生きたいと思えるように変えられていく。そこに天の国、私たちを救いに来られた神様のご支配が、キリストに背負われた私たちの内に、また私たちの生き方を通して、世に現れる。

それが、この後ずっと語られる生き方のゴール、何度も繰返しますが上の段16節の主の御言葉です。「人々があなたがたの心良い行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。先週と同じことを言います。自分が救われるためには愛さなくてよい人を、何で愛して、自分を捨てるのか。そこに現れる生きておられる神様のご支配、神我らと共におられるインマヌエル、キリストの憐れみの義しさを人々が見て、我らの天の父を共に礼拝するようになり共に救われるため!そのために神様の愛の基準で生きるのです。

できなくても!だからイエス様の憐れみに、はいと生きられるからです。自分はできると自惚れて、人を馬鹿にするより、共に主の憐れみを求め、裁くことを捨てる。それでも腹を立てるところで、ごめんなさい、主よ助けて下さい、自分は本当に愚かだと、その地獄の罪を背負われたイエス様の愛に、ありがとうございますと生きる。キリストの優しさに生きる!そこに、我らの父が、御子を身代わりとされるほど、我ら!に求めておられる、父の子として共に生きる愛の御心がなるからです。

その憐れみが「あなたを訴える人と早く和解しなさい」という求めにもなるのです。神様は、私たちを訴える相手のことも深く愛され、特に罪の被害を受けた人の痛みを、決して馬鹿にされない神様だからです。私たちが罪を犯し、踏みにじった、その人の気持ちがわかるかと、その罪を負われた神様が求められるのです。あなたも、その人も、わたしは誰をも見捨てないから、わたしに背負われ、共に生きてほしいと。この憐れみのご支配を、だから先ず何よりも、祈り求めて、生きるのです。