マタイによる福音書5章17-20節、エゼキエル書36章25-27節「証明された義を示す霊」

23/5/28聖霊降臨日礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章17-20節、エゼキエル書36章25-27節

「証明された義を示す霊」

だから神様のほうから、私たちのもとに来て下さいました。「わたしが来たのは」そのためだったろう、あなたがたを背負って一緒に天の国、父の救いのご支配に入って、共に生きるためだったろうと。イエス様は何のために人となられて来られたのか、何が目的で!来られたのかを、「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」あるいは「満たすため」だと言われます。

つまり律法には満たされるべき目的がある。その目的は律法が求める罪の償いの犠牲の死が、神様が死んででも満たされなければならない、世界の救いという目的です。つまり私たちが、神様の憐れみの義しさ、義を満たされるイエス様に、背負われ結ばれて一緒に!天の父の救いのご支配に入り共に生きるという救いです。そのためなら自分を捨ててでも共に生きると選ばれる神様の義を、そうです、それが私たちの救いの義ですと信じ受け入れ、その義に共に生きるために、与えられたのが、律法です。あるいは律法と預言者、セットで旧約の御言葉のことだとも言えます。だから旧約は厳しいから読まんでもかまんと言うのは、神様の義を示す御言葉に、自分の正しさを押し付けることになります。

聖書の例で言えば、隣人を自分のように愛しなさい(レビ19:19)との律法を、行いなさいとイエス様に言われた律法学者は、私の隣人とは誰ですか?と、神様の愛の求めに、これが私の隣人と線引きして、神様の求めは厳し過ぎると自己正当化した(ルカ10:29)。よくわかる話ではないかと思うのです。自分にできないことを厳し過ぎると言う正当化。できることは、何でできんと上から言うのもお約束の自己正当化ですが、そうやって自分のできる正義で身を守って、律法を守っているつもりになっていた。その自己正当化の義しさ、偽りの義に勝った義が、あなたの義でなかったら、決して天の国に入ることはできないと言われるのを、もし!自分を守る態度で聴いたら、イエス様は厳し過ぎると、十字架の優しさを忘れて思ってしまうのではないか。

その私たちの隣人となるため、ご自分のように私たちを愛するため、主は自分を捨てて私たちを救いに来た。そのために来た。もう来られた。そして十字架で自分を捨ててでも、あなたに死んでほしくない、天の父のご支配に一緒に生きよう!皆で!と、律法の目的を満たされた。その律法が、見よ、これがあなたたちを神の子として生かす義である。この義に、共に生きよう、これ以外にないだろうと、御子が命がけで与えて下さった天の国、天の父の救いのご支配を、律法は、キリストによって指し示すから、アーメンと律法に従うのです。律法を満たすキリストを信じ礼拝しながら。つまりキリストに、はいとお従いするのです。

ただ、神様の義、共に生きる憐れみの義を知って信じてもいるのに、誤解して、あるいはキリストさえ言い訳に用いて、律法に従わなくても救われると自己正当化するかもしれません。キリストによって救われるのだから、律法を行うことによってではないのだから、むしろ律法律法という態度は、決して天の国に入れない律法主義の態度だから、律法に従わなくても良いのだと。あれ、最後の論理だけ、いつ破綻した?(笑)と、まるで最後だけ負けるオセロみたいに、天の父のご支配が、自分の都合でひっくり返されることはあるのではないでしょうか。

罪の誘惑に会う時。自分を捨て十字架を仰ぎつつ主に従うと選ぶか、自分を選ぶかの判断を、心がする時。自分がしたい、自分がしたくないという思い、自分!が天の国より大きくなって、天の国で最も小さい者と呼ばれてもかまんと思う時、本当はどう思えばよいのか。どうしたら自分を捨てる神様の義に、はいとイエス様にお従いできるのか。それを主は、先に16節で言われてから、律法は満たされなければならないと、救いの御心を語られたのです。「人々があなたがたの心良い行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。律法を行うから救われるのではないのに、自分が救われるためには愛さなくてよい隣人を何で愛して、自分を捨てるのか。そこに現れる生きておられる神様の光を見て、神我らと共におられるインマヌエル、キリストの憐れみの義を人々が見て、我らの天の父を共に礼拝するようになるため。そのために神様が自分を捨てに来て下さった世界が、共に救われるためです。

既に9節でも、その救いの「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子たちと呼ばれる」と約束されていました。それが私たちの将来であり、現在です。平和の道となられたイエス様の光を、行いによって、この平和に一緒に生きましょうと、自分のためでなく、我らの救いのため、主の愛に生きる。主が愛されたように、憐れまれたように、主の弟子として、主のように生き得ない弱さと罪の中でも、その我らを背負い抜かれる主が、わたしについて来なさいと招く御声を聴くことができるように、聖霊様も来られたから、はいとお従いするのです。天の国はそこに近づき、十字架で証明された救いの義を世に示すからです。