マタイによる福音書5章11-12節、詩編18篇17-31節「十字架の主でよかった」

23/5/14復活節第六主日礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章11-12節、詩編18篇17-31節

「十字架の主でよかった」

主は高い天から報いて下さる。その高い天から自分を捨てて私たちを救いに来られた主を、あなたの憐れみが義しいですと信じる者たちに。それは「あなたがた」のことなのだと、主は念を押すように、私たちを励まして、11節を直訳した前の口語訳では、こう言われます。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは幸いである。」

人々が、お前イエスの弟子だろと、それでお前は幸いなのかと、偽って不幸な悪口を言う。あるいはその偽りに、私は不幸だと思わされる迫害を、人々があなたがたに行う。主は言われます。わたしのものであるあなたがたに、わたしが幸いを保証する。「あなたがたの報いは天で大きいから」幸いだから、本当は喜んでよい。飛び上がって、天の宝をのぞいてよい。今は見えなくても、わたしが必ず報いるからと。見える地上での不幸を嘆き怖れる私たちに、その時には見えない天の国、神様のご支配は、でも、あなたがたのものだと約束なさるのです。

ここでの急所は二つ。先ず大事なのは、これはイエス様と私たちとの間の信頼関係の幸いだという急所です。だから「わたしのため」または「わたしの故に」と、イエス様に身を委ねた者たちの幸いが語られます。自分が何をするから幸いという、自分が!の不幸から、主に背負われて救われる関係の幸いが、迫害から語られるのです。自分が何をするではない。人々が!キリストの故に!私たちを迫害する時、もう本当に自分が!は関係なくて、キリストに結ばれた新しい自分が理由で、あなたはわたしのものだから幸いであると。自分が何をするせんに依拠しない!キリストとの関係の確かさが、報われるから!と強調されるのです。

二つ目は、その恵みの関係で私たちと結ばれたキリストはご存じなのです。私たちがキリストの故に迫害を受けたら、不幸だ、嫌だ逃げたいと、自分自分になる弱い私たちであることを、ご自分の苦しみとして、憐れみ背負って下さる十字架の主であられるから!だから苦しみの時、自分を主に委ねてよい、必ず報われるからと慰められるのです。

確かにキリスト者であるが故に責められたり、悪く言われる時、迫害だとは思わなかったとしても、幸いとは思えないのじゃないか。まして幸福は、その時、微塵も感じんのじゃないかと思うのです。

ペトロも、また俺かと報われゆうでしょうか(笑)、お前イエスの弟子だろと、イエス様の故に迫害され、まるで信仰を捨てるように、あんな人は知らないと言った時、きっとペトロが感じていた感覚も、理性も、信仰さえもが、いま私は幸いではない!と悲鳴を上げたのじゃないか。何で私がこんな目に遭っているのか、逃げられないのかと思ったに違いない、その時に!なのです。自分がその時、何を感じて、何を考えて、また何と信じて、それがどんなにキリスト者らしくなかったとしても、そのペトロを、愛する弟子たちを、弱い私たちも罪も何もかもを背負い切って愛し抜いて死んで下さった神様が約束されるのは、あなたが思う一切を超えて、あなたは幸いだ、何故ならわたしのものであるあなたの報いは、わたしの愛の大きさと同じくらい大きいからだ!と言われる。その愛を信じて飛び込むのが洗礼なのです。

その恵みの関係を更に保証されるため、何故ならと、それは預言者の報いと同じだと、更なる恵みのフォローによって慰めが語られます。

木曜の祈祷会で何か月も預言者エレミヤを通して、まさに主の命がけの愛を聴いておりますが、こんなにも自分を捨てて人々の救いのために御言葉を伝えることが人間にできるのか?主の恵みに捕らえられたからとしか言いようのない生き様、油を注がれて、キリストの代わりに救いを人々に伝える主の僕。それが預言者ですが、12節で「あなたがたより前の預言者たち」と聴いて私が思い出すのは、この教会を開拓伝道した鈴木牧師です。愚直に御言葉も語られましたが、その行動力は、預言者のそれだったと思います。人々の救いのために行動し走り抜いた。でもその行動で人から悪口を言われたことも知っています。誤解されやすい人でもあったと思います。頑固で(笑)弱さもあった。同じ。私たちと。

鈴木先生の前の預言者たちも、弱さを抱え問題を持ち、でもイエス様に捕らえられて、鈴木先生みたいに、笑顔で、まいったねとは言わなくても、恵みによって人を捕らえて下さる主の御言葉に生きた。キリストに背負われなくても御言葉を語れるという預言者は一人もおらんのです。キリストが背負って下さり、これが人を生かす命だと御言葉をくださるから、はいと生きる。その預言者と同じ報いを、ご自分と結ばれた皆に主は約束されるのです。わたしが、わたしの預言者たちを遣わしたように、わたしは、わたしのあなたがたを、地上に遣わす。悲しみがあり、苦しみもある地上だけれど、あなたがたの報いは天で大きいと、十字架で世界の罪を担われた主が、報われる、本当に報われる、幸いだと言って下さるから、自分の幸いを主に委ね、救いに生きて良いのです。