マタイによる福音書5章8節、詩編24篇「清和学園の名前の由来」

23/4/23復活節第三主日礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章8節、詩編24篇

「清和学園の名前の由来」

清和学園の「清」は、この御言葉に由来するそうです。ちなみに「和」は次の「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」ここからですが、何故、神の子と呼ばれるか。だって、あなたも神様の子供として愛されて生まれてきたのじゃないか、あなたも本当はそうじゃないか、だからそう生きようと、神様が招かれるからです。

先に読みました詩篇で「世界とそこに住むものは、主のもの」と言われます。そのように神様が、私たちと世界を創られた。人は、神の形に創られました。その名を愛と呼ばれる神様ですから、愛の形に創られたとも言えます。でもその愛の世界に罪が入り込んで、言わば純粋な水が入ったコップに、それは俺の水だと誰かがペッと唾を入れて、他の人が飲めなくなった。じゃあ私も自分のを取って置かないとと、唾入れ競争する世界。平和でもなくなった。純粋で清い、あなたと共に生きたい、水も一緒に飲もう、だって、自分のためだと共に生きられないという、愚かで損をする真っ直ぐな愛の形に創られた心を、失ったら、そしたら世界はこんな世界になってしまった。何が私たちの幸いか、どうしたら幸せに生きられるのかも、わからなくなってしまった世界。

その「世界とそこに住むものは、でもわたしの愛する世界、わたしの愛する者たちだから」と、愚かで損する真っ直ぐな神様!が来られて、神は愛だと言い張ってやまない、あきらめない神様が!クリスマスに人となられた。私たちの罪を代わりに背負うため。赦して救うため。共に生きようと来て下さった。あなたはわたしの愛する者だからと、私たちの失った清さ、愛、世界、幸せを取り戻す私たちの王として、主としてキリストが来て下さった。その幸せを歌ったのが先の詩篇。またそれを清和は毎年のチャペルクリスマスに、メサイア合唱でこう歌うのです。King of kings! Lord of lords!新入生の皆さん、ガチ最高です(笑)。

こんな愚かな愛をあきらめない神様が、私たちと共にいて下さって、心の清い人々は幸いであると言って下さる。この愛があなたを清くする。ぜんぶ赦す。新しくやり直していい。何度も何度でも一緒にやり直すから。わたしはあなたと共にいる神、あなたはわたしの愛する者だからと言って下さる。その救いの言葉を、愚かにも、はいと信じる真っ直ぐな心を、その心は清いと主は言って下さいます。そしてその人は、きっともうそこで神様を見始めています。そして、その幸いは、きっと周りの人たちにも見え始めているのです。

清和の小西校長が、よいしょするんじゃないですよ(笑)清い心から紹介しますが、6年前、別のミッションスクールの校長をやめて清和に来られる時、他にも幾つか、校長として来て下さいとオファーがあったそうです。では何で清和に来たかと誰か尋ねたら、清和が一番小さく、お金もなくて困っていたからと言われ、私は清和の評議員として内情を知っていたので涙が出そうになりました。イエス様が言われた、もし、百匹の羊を飼っていて、その中の一匹が迷い出ておらんなったら、99匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かんだろうか、行くじゃないかと、私たちの世界に来て下さった王の王、主イエス・キリストの言葉を先生はその時に思ったんじゃないか。夜寝る時に、まあ羊を数えたとは思いませんが(笑)、でも他の羊が跳び超えていく柵を跳べない小さな羊のことが、もう寝ようと思っても心に思い浮かんで放って置けんかったのじゃないかと、まあ勝手に思うのですけど、きっとそんなには違わんと思うのです。何でその一匹が気になるか。イエス様が捜し求められた迷っていた羊は私だから、神様が死んでしまわれるほど私を愛されて、わたしについてきなさいとイエス様が招いて下さっているから、はい、私はあなたのいらっしゃるところに行きますと、主のもの、主に命がけで愛されている小さな者として、イエス様と生きている。その幸いは、きっと見える、いやもう本当は見えていると思います。

また、多分これは身内褒めが入っていると思いますが、一昨日清和で教会紹介をした時、うちはどんな教会ですかと無茶ぶりして六花ちゃんがとても良いリアクションをしてくれて、ありがとう(笑)、その後で、寺田先生に、礼拝はどんな礼拝ですかと振ったら、超頑張って、照れた笑顔で一生懸命紹介してくれた、ありがとう(笑)。そして夕方、沢山の生徒が高知東教会に出席すると紙に書いてくれたと、喜んで伝えに来てくれました。いや~だって、すごい頑張って紹介したもんねと言うと、心から嬉しそうな顔をされた。4年前高知に来た時に、神様の愛を伝えられる学校で働けるなんて本当に嬉しいですと言っていた顔を思い出しました。その幸いも、私たちはもう見ていて、きっとこれからも見るのです。世界をあきらめない神様は、私たちが、神は愛なりと信じ損ねることがあって尚、わたしはあなたを愛している、わたしは主、あなたの神だと、共にいて下さる。その十字架を見ながら、真っ直ぐな神様の愛に生かされて、神様を仰ぎ見る幸いに、皆、招かれているのです。