マタイによる福音書5章7節、詩編103篇「憐れむ神様の正義こそ」

23/4/16復活節第二主日礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章7節、詩編103篇

「憐れむ神様の正義こそ」

「その人たちは憐れみを受ける」。そうでなければ行き詰まる貧しさがあるから、欠けと破れがあるからでしょう。神様から赦されなければ、顔を上げ、救われて生きていけない罪の負い目があるから。だからその負い目を、憐れみ深い神様が背負って下さり憐れんで下さり、赦され、感謝して生きられる。それが幸いなのです。

「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」主の祈りの根拠がここにあるとも言えます。人のしたことを赦せないと思う我らを、自己保身で愛に生きられない我らの罪の破れを、十字架で背負われた神様が、約束されるのです。ここにあなたがたの幸いがある。わたしの幸いもここにある。お互いの身になって、共に生きよう。その罪を赦すことが痛みを伴う愛であっても。それでも共に生きたいから、我らとして共に生きたいから、この憐れみの中で共に生きてくれるか。この十字架の愛の内に、共に生きるあなたがたは幸いであると、神様が招いて下さっている。それがこの、憐れみに生きる幸いです。

憐れみという言葉が、もし否定的な嫌な感覚を覚えさせ、憐れまれるのは嫌だ、憐れみには何か上から目線を感じると思うなら、こう言い換えても良い。憐れみは痛みと共にある優しさ。憐れむとは、痛みと共に優しくすることだと。痛み苦しむのに、上も下もありません。苦しいと感じる。苦しいのは嫌だ、避けたい、逃げたいと思う。その感情、嫌だ、逃げたいと思う感情的判断は、皆、同じだから、同情するのでしょう。逃げたい気持ち、弱さがわかるから。自分も苦しくなるからです。

あるいはだから、苦しんでいる人と共にいるのは辛いので、感情が、嫌だ、共にいたくないと判断する。苦しくなるからです。楽になりたいのです。でもだからこそわかる。その人も苦しみから少しでも楽になりたいのだと。それで、苦しくてもその人に優しくすることを選ぶところに、その人の重荷を自分の重荷とし、痛みを担う優しさに生きるところに、神様の十字架の優しさが現れる。憐れみ深い人の幸いが、そこに、現れ見えると言えばわかりよいでしょうか。

憐れみ深い幸いを、その人の身になる幸いと言ってもよいでしょう。無論、本当にその人の身になることは、私たちにはできません。わかるわかると言われたら、何がわかると、苦しむことさえある私たちです。相手の苦しみを真実にはわかりあえない私たちだと知ればこそ、主よ!憐れんで下さい、と祈るのです。私たちの身になられて、罪の苦しみを負い切って下さった神様の憐れみのご支配を来たらせて下さい。主よ、私たちの身になられたあなたの憐れみのご支配で私をご支配くださり、あなたの憐れみの内に用いて下さいと、キリストを求めるのです。主の憐れみが、わからんなり他人事になる時に、憐れむこと、赦すことを、自分中心に考えて、上からになって、相手の身になり損ねるからです。

後にペトロが「主よ、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と、相手のことよりも、自分がどれだけやればよいかと求めた問いに対し、イエス様は王に赦された人の譬えをされます。個人では返しようのない5千億円という負債を一家身売りして返済する命令に、待って下さいと懇願する家来を、主君は「憐れに思い」直訳は、内臓が苦しくなって、目の前の相手の苦しみを自分の苦しみとし同情して、彼を赦し全部免除した。でも家来は帰る途中、自分に50万円借金している仲間に会うと、待って下さいとの懇願も聞かず、全部返せと牢に入れた。主は言われるのです。それを知った主君は、赦された家来に、こう言った。あなたも自分の仲間を憐れむべきではなかったか(マタイ18:33)。

あなたも自分の仲間を憐れむべきではなかったか。その苦しみを真実にはわからなくとも、苦しんでいることは、それがどんなに辛いかは、自分のこととして知っているだろうと「隣人を自分のように愛しなさい」(22:39)と求められる神様が言われるのです。自分は別格で違うからと上から言う人間のようにではない。隣人となられた神様が!私たち一人一人の身になられて、全ての負債を負ってくださった神様が、わたしは自分のようにあなたを愛している、あなたもどうかあなたの隣りにいる自分の仲間、隣人!を、憐れみ深く愛する幸いに、共に生きてほしいと招かれるのです。

幸いは、人に優しくしたらよいかとか憐れんだらよいという、何かをするから幸いではない。何故そうするかです。自分自身、憐れまれなければ立ち行かない罪人だから、罪を責められたら生きていけない、自分では償い得ない破れがあるから、神様の憐れみが救いなのですと、隣人の苦しみを憐れむのです。憐れみ深い幸いを信じるのです。私のために死んで下さったキリストの憐れみを忘れないから、そのキリストの僕として憐れみに生きる。主よ、憐れみたまえと、キリストが憐れみ救ってくださる幸いを信じるのです。主キリストに背負われて、憐れまれて、幸いな、神様の痛みと共にある優しさを分かち合うのです。