マタイによる福音書5章6節、ヨブ記19章25-27節「十字架が満たす正義に」

23/4/9イースター召天者記念礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章6節、ヨブ記19章25-27節

「十字架が満たす正義に」

先に召された兄弟姉妹たちを、そして私たちを、復活のキリストが、おはようと起こして、立ち上がらせて下さる。そのために人となられ、私たちを償う身代わりとなられた神様が、私たちのいのちを背負われて復活なさったのは、そのためです。その復活の救いを祝う今日の礼拝に与えられた御言葉で、では、何故なのか?どうして神様はそこまでして私たちを救われるのかを言うなら、こうです。それが神様の義、十字架の、信じられないほど愛の神様の正義だからです。

別の言い方で言えば、愛する者の死に心が動かされる。死んでしまうことに平気でいられない。心が波立つ。あるいは怒りさえ覚える。人が死ぬことに正当な理由があっても、そうであっても、じゃあ仕方ないとあきらめられないのが愛の正義だと言っても良いと思います。

主が十字架に向かわれる少し前、親しかったラザロが病死して、墓に葬られた。イエス様がいて下さったら兄は死ななかったでしょうにと、死んだのはイエス様のせいだとばかりに泣く姉妹を主はご覧になって、イエス様は心に憤りを覚え、涙を流されたとヨハネの福音書は告げます(11:33-35)。自分のせいにされたからではない。むしろすべてわたしのせいにしてかまわないから、そのためにわたしは来たからと、十字架の救い主として、主は私たちの死に向き合われ、心動かされ泣かれる神様なのです。聖書全体が告げる通り、罪の報いは死であっても、それでも死んで丸く治まるような正義は、十字架の神様の正義ではないからと、神様が泣いて身代わられ、神様が死んで償って、あなたはわたしと共に永遠に生きよと、立ち上がらせて下さる救いをお与え下さった。そして、この義しさに生きよ、義に飢え渇く人々は幸いだと招かれるのです。

それは、ただ単に救われることを求めよというだけではありません。救われたらいいという、ある意味、救いのご利益宗教が薄っぺらく思えるのは当然のことだと思うのです。愛の情が薄いことを薄情だと言う。私はつくづく自分は薄情だと知りながら、ならこの神様の、涙を流して心が怒りで動かされるほどの十字架の愛の義に、飢え渇いているか?と問われたら。でも私は自分が薄情だと知っているからとか、人の痛みを踏みにじる態度や言葉に怒りを覚える時、これは自分が義に飢え渇いているからだ、ということにして「飢え渇き」を薄くしてしまっている。そうして自分を守ろうとするところで、自分自分が出てくるところで、義の渇きを覚えるのです。自分には愛がないと。本当は愛したいのに、必要なのにと、愛の義に渇く。皆、そうなのじゃないでしょうか。

愛の義がないと飢え渇く。情の薄さ、共に涙を流すことの乏しさに、愛をください、愛がないのは義しくないです、義が私には欠けているのですと、飢え渇く。それを言い逃れで満たそうとしないのです。むしろそこに渇きを、ない!という欠乏を覚えるのではないか。ないから渇くのです。飢えるのです。それは確かに、自分の内に覚えるよりも、人のやること言うことに対して、愛がないと、あるいは怒りも覚えやすい。街頭演説で、ある人々のことを気持ち悪いとスピーカーで言っているのを聞いた時、内臓がむかつく怒りを覚えました。何の権利、正義で人を堂々とさげすみ、気持ち悪いと言うのかと一日自分の内に気持ち悪さを覚えながら、主よ、憐れんで下さい、愛のない私たちを、自分には正義があるつもりの私たちを、自分の正義で自分を満たそうとして、隣人を自分のように愛せない私たちを助けて下さい!憐れみの義を、正義の愛をくださいと祈る他ありませんでした。次の選挙に出ようとは思いませんでしたが(笑)、ではどうしたら良いのかと。どうしたら私が私の愛のなさに飢え渇くだけでなく、私はそれで幸いだからと十字架の神様の愛を薄めず、どうしたら隣人と共に、自分のこととして隣人を愛する義に生きられるのか。義に飢え渇く。天にまします我らの父の前で、御子をさえ惜しまずに我らの犠牲として下さった我らの父の前で、我らの罪を赦したまえ、悪より救い出したまえと祈りつつ、どうしたら、ご自分を捨てられてまで私たちと共に生きられる救いを選ばれる神様の義に!飢え渇き、求め続ける幸いに生きられるのか。その幸いを、わたしたちの幸いとして約束するからと、私たちと共に飢え渇く者となられた主の渇きに、私たちに幸いをあきらめられない主の愛の渇きに、はいと信頼して、復活の主に背負われて、共に渇けばよいのです。

やがて、すべてが終わり、すべてが明らかにされ、正当な裁きと報いとを、十字架の義なる神様から受ける時、そしてすべてが新しく始まる復活の時、信じられないほど義しい、復活の救いが満ちます!その時を憧れ待ちつつ、復活の主が、ここに幸いがあると約束された愛の義に、神様から注がれる憐れみの義に、主と共に渇きながら歩む。主と共に、隣人と共に、ない、ないと渇きながら、だからこそあきらめないで求めながら、信じながら、イエス様が幸いだと言って下さった、痛みと共にある優しさの義しさに、渇いて歩む。その渇きは満たされるからです。