マタイによる福音書4章12-17節、イザヤ書8章23b節-9章6節「救い主の距離感は近い」

23/2/26受難節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書4章12-17節、イザヤ書8章23b節-9章6節

「救い主の距離感は近い」

「死の陰の地に住む者に光が差し込んだ」「光が昇った」という言葉です。その昇った上からの光、大きな光が、暗闇と死の陰に住む者たちのもとに、バッと飛び込んで来て「神様に向き直りなさい。神様のご支配が、ほら、こんなにも近づいたから」と、救いの光を照らした。それがイエス様の救いだと、マタイは告げるのです。

悔い改めるとは神様に向き直ること。天の国とは神様のご支配のことだと、同じ言葉を洗礼者ヨハネが告げた時、説き明かしました。なら、どこから向き直るか。それが明らかになります。暗闇と死の陰に住んで生きている、そこから、そこに救いの光として来られた神様に、はいと向き直って、救いの光の中をイエス様と一緒に生きる。その救いの生活を、5章14節で、こう言うのです「あなたがたは世の光である」。16節では「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの良いあるいは快い行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。どんな行い、生き方か。私たちが天の父との良い関係、親子の関係に生かされる行い。それがいかに快いことか、自分自分で生きなくて良いのです。自分自分で暗い罪の生き方になってしまっても、ごめんなさいと向き直れる父を知っている。一緒にごめんなさいと謝って下さり、完全に赦して受け入れて下さり、どんなことがあっても一緒に生きて下さる御子イエス様をくださった父だから!と、イエス様によって知っている。信頼している。だから、これが救いだ!という神様との信頼関係の光の中で生活できるのです。その光の救いを携えて、その光、救いの信頼関係その方ご自身として、イエス様が来て下さって、「この神様に!向き直るがで、だってもうわたしは来たから、一緒におるから」と、もう既に来られた光として、わたしのもとに来なさい、一緒に生きようと招かれるのです。

その救われて歩む生き方が、どんな歩みかが、5-7章で丁寧に教えられますが、一言で言えば、御子の救い、つまり赦しの恵みをくださった天の父との関係に生きるとは、こういうことだと。自分でこれをしたら救われるがやろうという自分!とは真逆の生き方です。光とは逆、いやむしろ光がない状態でしかない「暗闇に住む」、その神様なき生活が罪だとも言えるのです。そしてその罪からの救いとして、今日はあちこちに飛びますが、頁で言うと2頁の上段冒頭で、私たちの罪を償う人として来られた子なる神様がイエス様なのだと、こう言われたのです「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。罪から、神様がない状態から救うのです。神様がない生活、光なき暗闇の生活にイエス様が来て下さって、共にいて下さり、導いて下さって、わたしは決してあなたを離れない、わたしは主、あなたの神だと、その恵みの関係によって救って下さる。それが罪からの救い、恵みの関係による光の生活なのです。神様がイエス様によって共におられる。だから自分は罪ゆえに死の陰の谷におるんじゃないかと思う時も「たとえ死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」、イエス様、あなたが私の主、私の羊飼いですと、詩編23篇が証しする光の中を歩めるのです。

マタイが先に読みましたイザヤ書を引用しながら、その神様の救いの光としてイエス様を紹介する時、マタイはおそらく、自分はこの「暗闇に住む民」の中にいた、その私のもとにイエス様は来て下さって、神様の恵みのご支配に向き直らせて下さったと、改めて神様に向き直って、天にまします我らの父よと、御名をあがめたのではないかと思います。暗闇に住む民を、さげすんで捨てられない神様なのだと。深い憐れみの思いで、御子をその償いにされるほどの神様なのだと。それがイエス様を光として私たちに与えられた神様だからと、自分のこととして!皆も神様に向き直って欲しい、このイエス様に応えて一緒に救われて生きてほしいと願って、今朝の御言葉を取り次いだと思うのです。後の9章で暗闇の生活をしよったマタイのもとにイエス様が来て下さった時のことも思い出しておったと思います。その時も、皆にイエス様の光を、紹介したかったのです。自分と同じ神なき生活をしておった友人らを呼んで食事会を開いた。でもそこに、そうした暗闇に住む民を、神様を知らん異邦人扱いしておったファリサイ派の人々が来て、悪口を言い始めた。罪人に関する悪口や不平を、聞いたことも言うたこともない人はおらんでしょう。でもそれを聴いて、イエス様はこう言われました「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだ」。マタイはきっとそこでも、神様に襟を正して向き直ったと思うのです。そうだ、これが神様だ、この神様がイエス様によって私を、暗闇に住む民を、ご自分の民として、償い赦して、救い愛される神様なのだと。ありがとうございますと向き直って、イエス様にお従いした。その同じ光が、ここにも輝いています。こんなにも近い恵みの神様の救いに生きるのです。