マタイによる福音書4章1-11節、詩編119篇65-72節「楽に安心したい誘惑め」

23/2/19主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書4章1-11節、詩編119篇65-72節

「楽に安心したい誘惑め」

天使たちが来てイエス様に仕えた。いや~大変でしたねと慰めに来たわけではないでしょう。知っているのです。この方は、人間となられた神様だと。天使たちをも創られた、ひれ伏されるべき創造主だと。石をパンにもできるし、天使たちに命じるのも当たり前。でもそれは神の子のなすことではないと、イエス様は悪魔の嘘を退けられます。

神の子、つまり、全ての人の罪と弱さを負って人となられた神様が、私たちを救うために与えられている聖書の御言葉に、お従いされます。ご自身を遣わされた父の御心が正義の救いだと信頼して、はいとお従いする。その従う先で待っているのが、神様に従わない罪を償う死であると知っておられながらも、いや知っておられればこそ、十字架で赦して救うと決められた父の御言葉に、はいと従われるのが神の子です。

すぐ前の3章17節で「これがわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、神様に向き直る洗礼を受けた御子について、天の父が宣言されました。その神様が喜ばれる愛、私たちにもイエス様を与えられることによって与えられている愛、また求められてもいる愛とは、どんな愛の関係であるか。それが今朝の御言葉で具体化されるのです。いつも申しますが、子なしに父にはなれません。それほどの関係で「愛する」と呼ぶ愛の関係は、子が、自分の力、自分の信じている信仰に従って実現するのでは決してない。全く逆に、父の御言葉に、はいと信頼して従う愛の関係です。私たちにも求められる大変に具体的で生々しい神様との愛の信頼関係が、ここに明らかにされます。

「神の子なら」。これも大変に生々しい、信頼関係のすれ違いへと誘惑する言葉でしょう。悪魔の誘惑の場合、本当はそれが神の子のなすべきことではないと知っているから、その嘘へと誘惑するのです。神様の愛の一部の真実だけ抜き出して、その愛の神様ならと誤解させ誘惑する。神様なら、こうしてくれるんじゃないのか?神が愛なら、こんなことになってないんじゃないか?人間関係でも、何で?と思う関係を、妻ならなら、牧師ならと言うと誘導しゆうみたいで気が咎めますが(笑)、生々しいのです。誘惑ってそういうことでしょう。愛の弱さ、自己中心さ、信頼の関係に生きる誠実さのもろさが、露呈されるのです。

キリスト者なら、と兄弟姉妹を裁くだけでなく、自分を、キリスト者らしくないと、キリスト者なら、こうでなければならないのにと、悪魔の誘惑を受けることも少なくないと思います。だから礼拝に行きにくいと思わせるのです。一人にさせる。自分はダメだと、自分自分にさせるのが悪魔の誘惑です。その私たちを、イエス様は、ダメじゃない!そのあなたの罪をわたしが償い切って、父から、あなたと一緒に愛されて、共に喜ばれて生きるために、わたしは来たから、それが聖書の教える、そこまで父に愛されているあなただからと救って下さる。だから、はいとイエス様と歩めば良いのです。それがキリストに死ぬほど愛され赦され救われたキリストのもの、キリスト者だから。その神様に向き直るのです。その洗礼を受けたのです。そして全ての人が、この神様との愛と信頼の関係による救いへと、洗礼へと招かれているのです。

自分で自分を救うのではない。自分で!が悪魔の誘惑です。自分で腹を満たせ、できるろうと誘うだけじゃない。自分で夢を満たせ、目標、人生、キリスト者らしさと言うより、信仰者らしさと言えば第二の誘惑に近いでしょう。聖書は正しいと信じているんでしょう、その正しいと自分で信じている信仰に、飛び込んだらどうだ、自分の信仰の正しさを自分で証明してみなさいと、信仰も、自分で!信じていると誘う誘惑。

それは後に、人間の罪を負われた十字架のイエス様に「神の子なら、自分を救ってみろ、そして十字架から降りて来い」(27:40)と誘惑した言葉に集約されるのです。だけど、神の子だから!自分を救わないで、私たちの罪を償う十字架から降りても来ないのです。その十字架で人間の罪が背負われて救われるからです。悪魔は自分を救えと言いながら、そうやって罪に滅びる人間を笑うのです。人間だって、本当は自分自分に生きたら、最後には自分も命も失ってしまうことを知っているのに、けんど自分を捨てる命に、ひるんでしまって、イエス様は私たちを救いに来られた神の子だと信じておっても、自分は!ってなってしまって、イエス様が言うことは難しい、十字架じゃない救いで救われてえいやかと、まるで悪魔が差し出す楽な救いに、イエス様もそれで許してくれるろうと誘惑されるから、「退け、サタン」とイエス様が救って下さるのです。「あなたは神様のことを思わず、人間のことを思っている」(16:23)から、だから「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、わたしがあなたと一緒に神様に従うから、あなたが従えない時でも、背負って、救いの御心にお従いするから、そのわたしを信じて、ついてきなさい、わたしは主、あなたを一人にしない神だからと。この神我らと共にいますインマヌエルの神様に、だから私たちも、はいとお仕えするのです。