マタイによる福音書2章13-18節、ホセア書11章「罪の犠牲を背負う神様」

23/1/15主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書2章13-18節、ホセア書11章

「罪の犠牲を背負う神様」

慰められようとしない悲しみがある。罪によって、理不尽に不条理に愛する者が奪われる悲しみ。その悲しみを、神様はイスラエル12部族の母親の一人、ラケルの名を借りて背負われます。この悲しみは、人には慰め得ない悲しみだからと。何故ならその子たちは、もういないから。その子の代わりに慰めとなるような代替などないから。その子が帰って来ることが唯一の慰めであり求めであるなら、どうして人はその悲しみを慰めることができるでしょう。共に泣き祈るしか、できんのではないでしょうか。帰ってきて欲しい。それだけが唯一の慰めなのです。代替などない。本人に帰ってきて欲しい。我が子と共に生きたい。愛する子らを罪に奪われた、親としての激しい痛みを、神様が共に苦しまれて、慰めを拒まれます。代替の慰めなどあり得ない。その子らの帰って来ることが救いだからです。その救いと慰めを「実現するため」に、御子を人として世に来たらせた神様が、私たちの罪と死に打ち勝って下さる。そして罪と死から愛する者たちを取り返される、唯一の救いの慰めを、キリストによって世界に与えて下さったのです。

その慰めが、決して人間的気休めと取り違えられないようにかもしれません。ここで引用されたエレミヤの預言は、御子による救いの慰めの他は拒む悲しみで終わっています。悲しみを、神様が悲しみとして共に背負って下さっている、それがジッと残像のように残っています。でもこの悲しみの預言には、実はこういう続きがあるのです。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」(エレミヤ31:16-17)。未だ、その時は来ていません。だから痛みがある。悲しみが残っている。でも来る。苦しみが報いられる救いの時が来る、その希望のもとで、私たちは祈っているのです。御国を来たらせたまえと。3章で、だから洗礼者ヨハネも言う。「悔い改めなさい。天の国は近づいたから」。未だ来てない。でも、もう御子が来られたから、私たちの罪と死に打ち勝って、私たちを罪と死から取り戻す唯一の慰めを実現するために、御子が救いとなられた慰めのもとで、私たちはもう歩んでいるから、そこには悲しみの中にも希望がある。むしろこの希望があるから、この悲しみは神様と共に負うことのできる悲しみなのだと、希望に支えられて歩めるのです。

今、木曜の祈祷会でちょうど旧約のエレミヤ書を読み進めています。エレミヤは「悲しみの預言者」と呼ばれるほど、ほぼ全編に亘って神様に逆らう民に、悔い改めを呼びかけられる神様の悲しみを背負います。そして罪の報いを受ける民の嘆きをも背負う。罪ゆえの悲しみに囲まれるようにして、それでも神様が「その時には」泣きやむが良いと、全くの恵みによって救って下さる約束が、悲しみの中で、ポッと希望の光が灯るように預言される。それがここで引用された31章です。

今朝の御言葉には、無論、我が子を罪に奪われた悲しみの部分のみが記され、続く救いの希望は、未だ実現していません。まるで罪の支配に希望が覆い隠されているような、罪によって引き起こされる悲しみだけが実現しているような印象を持ちやすい引用がされます。それは、罪と死が引き起こす理不尽な悲しみが世に満ちているからでしょう。それを見ないまま、神様の名を借りて大丈夫ちやと言っても、慰めにならない罪の現実、死の現実があるのです。だからこそ、御子が人となられた。三位一体の御子の死で、神様が!償って下さらなかったら、救われない私たちである。その罪の現実の前に立たせるのです。この罪と死に打ち勝ちに来られたキリストの慰めに、しっかり立つことができるように、キリストに導かれるのです。

15節には先に読みましたホセア書の冒頭が引用されます。その11章でも、神様の愛が届かないイスラエルの罪、罪ゆえに受ける報い、死、そして、それなのに彼らを救われる神様の深い憐れみが、やがて彼らの帰って来ることが、エレミヤと同じように預言されていました。それがキリストによって実現する神様の救いだからです。単に幼子イエス様がエジプトから呼び出されるということが実現するのではありません。罪に翻弄され、罪に殺され、罪の奴隷とさえ聖書が呼ぶ私たちの現実を、御子がご自身の現実として引き受けて死にに来られた。それは、御子に背負われた私たちの内に、御子の復活のいのちが実現するためであったからです。「わたしはエジプトからわたしの子を呼び出した」という救いが、その日、実現します。イスラエルを、エジプトの国、奴隷の家から導き出された神様が、御子に背負われた世界に向かって、わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、罪と死の奴隷の家から導き出した神である、わたしの子よ、帰って来なさいと呼び出してくださる。その慰めに今から生きるのです。罪と死に打ち勝つ希望に歩むのです。