マタイによる福音書2章1-12節、イザヤ書60章1-7節「異邦人が祝う公現の祭」

23/1/8主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書2章1-12節、イザヤ書60章1-7節

「異邦人が祝う公現の祭」

神様に導かれてイエス様に出会った、彼ら、異邦人の救いの物語が、教会の暦の中で読まれる日があります。それが説教題につけました公現の祭の日。暦では毎年1月6日を公現日と呼び、おそらくペルシャから来た学者たちを、異邦人の代表と見定めて、キリストが異邦人世界に公に現れて下さったことを記念します。また教会の伝統では、この日までがクリスマスの期間とされて、その間はクリスマスツリーも飾られているところが多いようです。

ただ日本では、すぐに門松にされ(笑)ツリーが片づけられるからでしょうか、何かクリスマスの喜びまで片づけられるようで、少し寂しい気がしないでもありません。キリストが来て下さった喜びを、じっくり味わうことは、ともすると慌ただしく過ぎ去る日々の中で、キリストが私たちと共におられる恵みを見失わないための知恵、キリストにお会いする喜びを忘れんための、大切な知恵だと思います。キリストを信じていても、すぐ違う喜びに心移りしやすい誘惑、弱さがあるからとも言えるでしょう。別に門松に敵意は持っていませんが(笑)、冬至を超えて、だんだん日が長くなる日々の中、イエス様、ありがとうございますと、神我らと共にますインマヌエルの喜びを、共に味わいたいのです。

この学者たちも私たちと同じ異邦人です。世界を創られ、キリストによってその世界を償い救われる神様を、私たちの神様とは呼んでなかった人々でした。「メシア」と何故かヘブライ語読みで訳された元の言葉は「キリスト」、メシアのギリシャ語訳で「油を注がれて神様から特別に選ばれた人」の意味です。だからよく救い主とも言われる。そのキリストを、彼らが「ユダヤ人の王」と呼ぶのも、それがキリストの別名として伝わっていたからでしょう。でもその方を「拝みに来た」礼拝しに来たというのは、キリストを私たちの王、救い主として信じたい、その王の救いを受けたいと求めて来たのです。昔の旅です。強盗に襲われる危険にも備えながら、単にキリストに興味があるくらいでは来ない。今でも興味がある人なら、きっと少なくないのです。でも関心があると言うと面倒なことになるんじゃないかと遠慮する気持ちもわかる。わかるから誘いにくい、断られたくないという思いも働くのです。わかるから。

でも、キリストに導かれ、教会に導かれるというのは、そこに人間の思いを超えた、神様の導きがある。自分からしても、何で教会に導かれたのか、何で洗礼を受けたのかと問われたら、やっぱり神様に導かれたという思いが、最後には一番しっくりくるのではないでしょうか。

自分の思いを超えて神様が導かれる。自分の人生だから、自分で、と思っているのに行き詰まる、その人生に、まるでモーセの目の前で海が割れるようにして、私たちの人生に割り込むようにして介入して下さる神様によって、キリストに出会うのです。キリストにではない。教えにではない。私たちの救いのために死にに来られたキリストとの救いの関係にキリストご自身に導かれるのです。

人から教えられて導かれても、どこか不安が残る。違うでしょうか。牧師の言葉だからで洗礼を受ける人はおらんと思います。神様の言葉として、はいと聴くから信じるのでしょう。東方の学者たちも、律法学者たちがベツレヘムだと言うからだけでは不安だったようです。同じ学者として、それは正しいのだろうけど、でもと。私たちも人からもらった地図ではなくて、神様の導きを求める時、これまでも導いて下さった、きっと今も導いて下さると、神様を信じて顔を上げる時に、そこに神様の導きが見える。神様が、こっちだと導いておられるからです。

その導きの星を見て、直訳で言うと、「彼らは大いなる喜びをもって、この上なく喜びました」。それは人に与えられる喜びとは違う喜びだと。異邦人ですから、聖書の神様以外の何かが与える喜びなら、知っちゅうのです。でもそれでは私は救われないのだと。この命が絶えても、天地が滅びることがあっても、その天地も命をも御言葉によってお創りになられた神様が、命あれと救って下さるのでないなら不安があると、神様の救いを求めて来たのです。人が導く地図や正しさでは届かない、喜びにあふれて信じられる救いが欲しくて、信じられる神様に会いたくて、自分の命を委ねられる、自分の救いを委ねられる神様を信じ求めて旅をするのは、この学者たちだけではない。異邦人世界を代表する彼らを、神様が見つけられ、導かれ、私たちの全ての祈りに先立ってキリストによる救いを備えて下さった、神様が私たちの救いであられるから、その神様に、神様が油注がれ選ばれたキリストの御前に、私たちもまた礼拝を献げることができる。信頼して自らを委ね、不安を委ね、一切を神様にお委ねして、自分をお献げできるのです。

自分はどこに行けばよいのかと、行くべき道を見失う私たち、喜びが行き詰まってしまう世界に、キリストが来られて、キリストご自身へと導いて下さるから、この導きの神様に、すべて託してよいのです。