ローマの信徒への手紙15章15-16節、イザヤ書11章10節「クリスマスが来た目的」

22/12/11 待降節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙15章15-16節、イザヤ書11章10節

「クリスマスが来た目的」

異邦人。つまり世界のすべての民がと、ここでは言い換えると私たちの目が、どこに向かえばよいかがわかるでしょう。すべての民ですから、そこに含まれてない人はおりません。私は無関係という人も、あの人は無理という人もない。むしろその人をこそイエス様が見つめ求めておられるのを、私たちはもう既に見ていると思うのです。自分は神様と関係ないと生きている人々や、知りたいとは思うけど、後で、と思っている人々を、イエス様が愛して死んで下さったのを、私たちは知っている。イエス様が心から愛されるその一人一人から、たとえ遠慮され、後回しにされても、それでも十字架で、その一人一人を償われた神様として、そのために人となられた神の御子として、イエス様がその人々のため、教会に、こうお命じになられた御言葉も忘れてはおりません。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:19f)。

それが今朝の御言葉で「それは異邦人が、聖霊様によって聖なるものとされた、神様に喜ばれる供え物となるために他なりません」と教える具体的な姿です。もっと思い切って短く言えば、すべての人が救われ、神様の家族として救われて生きられるように。そのためにキリストは、私たちの隣人のもとへ私たちを遣わされて、その人を、わたしのもとに連れて来なさいと、私と隣人を私たちとして愛しておられる。その愛と救いの求めが、もうえいわ、と諦めることは、決してないのです。

そのキリストの愛が、私たちの記憶の中には、確かにある。先生また同じ説教しゆうと思われるぐらいに(笑)、キリストの愛の求め、福音の記憶は確かにある。が、愛は足が速くて古くなりやすい、それは新しくされ続けないかんことを、御言葉は赤裸々に伝えます。しかも「かなり思い切って」、キリストの愛を思い起こさせないと、ガッツリ寝ゆう人を起こそうとしても、わかっちゅうき、と言いながらイビキかいて起きんように、思いが起きないと、知識としての思いがあっても、また主の愛にお仕えしたいという思いがあっても、その思いが、起きて、はい!とイエス様にお仕えするには、かなり思い切った言い方が必要になることも、御言葉は赤裸々に伝えるのです。

「思い切った」という訳は良い訳だなと思います。イエス様の救いにお仕えしたい、あの人にキリストの救いを伝えたい、救われてほしいという思いはあるのです。あるのに、その思いが寝ているような、不甲斐ない思いをすることもある。あるいは仕方ないと自分を守り弁護しようという方向に人間の思いはすぐ働こうとする。その思いを、御言葉は、えいっと切るように、思い切って、あなたが人々の救いのためにお仕えしたい、あの人に、この人に救われてほしいと思う、その思い自体が、「神様から恵みをいただいて」!思う神様の思い、聖霊様によって心に注がれた(5:5)思いだと思い起こさせるのです。そうだ、私の心に与えられている救いへの思いは、聖霊様が私の内に働かれて、祈り愛することを求めておられる痛いほどの証拠だ。私は神様から恵みをいただいてキリストにお仕えする、救いのための祭司なのだと、思いのメーターを全部恵みの方向に振り切って良いのです。そのように思い切った神様の救いのご決断が、恵みによって思い起こさせられるからです。

つまり、神様が私たちを、恵みによって救われる決断です。人間の、できるできん、わかるわからん、従える従えんと、人間が自分の何かによって救われるんだと自分を誇るために何か取っちょきたいと思う一切の肉の思いとすべての罪を、十字架で背負われたキリストごと、えいっと天の父が切り捨てられて、人は皆、このキリストの償いにより恵みによって救われるから、誰でもキリストのもとに来なさいと、キリストが、あなたを救うクリスマスの救いの供え物だと、手を伸ばせば届く恵みをもう皆に与えてくださっているからです。

その恵みによって救われ、その恵み、キリストを証しする私たちは、確かに自分の愛の弱さや、だってと思う肉の思いに、自分を持って行かれそうになる。でも、その私たちをこそ聖めるため、まったくの恵みによって与えられた聖霊様によって、イエス様、助けて下さい!と祈れる恵みが与えられています。どんな時でも祈れる。そのお名前の意味が、主が救って下さるという約束そのものであるイエス様の御名を呼んで、イエス様、あなたの救いを信じます、私たちをお救い下さい!と信じて祈ればよい。その恵みによって生かされる祭司たちをお用いになって、主が恵みによる救いを与えて下さいます。だから愛の自信なく、優しい言葉をかけ、震えつつ隣人に愛の手を伸ばせばよい。その言葉と手を、聖霊様がキリストの福音を伝える言葉、手として下さいます。そこまで思い切った十字架の神様を信じ、キリストの救いにお仕えするのです。