ローマの信徒への手紙15章14節、箴言4章20-27節「諭し合える愛の出所は」

22/12/4 待降節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙15章14節、箴言4章20-27節

「諭し合える愛の出所は」

「確信しています」。直訳は「説得されている」という言葉です。ということは誰かに、何かに、心が説得されている。誰にでしょう。

兄弟姉妹たちを愛され、導き諭して、教会を主の羊の群れとして整え牧会して下さるキリストによってです。また神様が、キリストによって世界を救って下さるという良き知らせ福音に説得されていると言っても良い。同じことです。キリストを信頼するとは、そのキリストの福音を信じて、はいと歩むことだからです。

私たちもまた、その時には自覚がなかっても、洗礼を受けた時、また信仰告白をした時、キリストから心が説得され、その福音を、アーメンと信じて洗礼を受けた。キリストを私の救い主と信じますと信仰の告白をしたのです。

そうしてキリストに結ばれ、福音を聴いて歩む教会の兄弟姉妹たちについて、キリストから説得されることがあるのです。大丈夫、この教会は、わたしの教会、わたしが導く兄弟姉妹だから、と説得される。

私たちからすると、まあ確かに完璧な教会も、罪がないキリスト者もおりませんから、ここが大丈夫じゃない、ここがおかしいと、戒めると言うより、不平を言いたくなることはあるかもしれません。御言葉も、ああ、あなたたちは完璧だと言っているのではない。「互いに戒め合う」と言うのですから、それは神様が喜ばんでねえという罪、態度、欠けは見えるのです。そんなん気にしな、気持ち良う生きられんなるきというのでは決してない。それは「互いに戒め合うことが」できん状態です。御言葉は「できる」と確信する、説得されているからと断言するのです。

ところで「戒め合う」と言うと、眉間にしわを寄せて、小さいことに目くじら立てて戒律を守らなという律法主義的な雰囲気があるかもしれません。別の訳は「諭し合う」。諭すとは物事の道理をよくわかるように話し聞かせる、納得するように教え導くという意味です。

私には、忘れがたい諭された思い出があります。牧師になる前、妻と婚約中に、友人たちの前で妻をからかいましたら、二人になった時、私はあなたが牧会するイエス様の羊第一号になるのだから、大切にしてと諭された。私はキリストの前に立たされ、キリストから諭されました。牧師だけが諭すのではない。教会は、キリストによって諭し合うことが「できる」のです。キリストに説得されて始まった福音の歩み、救いの歩みを、キリストに結ばれて救われた兄弟姉妹は、キリストに愛され、それ故に諭されて、説得されて歩み続けることが「できる」。その愛に、教会は諭されるからです。キリストの愛に諭された教会は、互いに諭し合うことの何たるかを、その愛から、十字架で代わりに死なれるほどの憐れみから、その謙遜なキリストの恵みの福音から「知る」からです。

御言葉が「あらゆる知識で満たされ」と言う「あらゆる知識」の中身が、そのキリストを知る知識だと言えば、わかりよいと思います。逆に言えば、キリストを私の救い主として親しく知る以外のどんな知識が、人をキリストの愛で愛するのに、役に立つのか。欠けや罪が見える人にキリストのようにお仕えするため、キリストを知る以外のどんな知識がこの自分を変えてくれるというのか。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(コリント一8:1)と聖書が教えるのはその通りです。造り上げる。教会を「建て上げる」という言葉です。更には「あらゆる知識に通じていようとも…愛がなければ無に等しい」(同13:2)という御言葉からも、キリストの諭しをアーメンと受け取られるのではないかと思います。いつも同じ偏った知識を持ち出して、相手を正そうとするのではない、キリストのあらゆる角度から迫って来て包み込む愛の知識から、一緒にキリストの前にひざまずいて、洗礼を受けた時のように、はいと恵みを受けることが、教会は「できる」。すべてを包み込み聖めて新しく造り変えるキリストの知識によって、教会は、共に恵みに生きることが「できる」からです。

ならば「善意に満ち」と言われるのも、単に倫理的な善では満ち足りないということは、おわかりになると思います。確かに、善を行いたいと求める意志があるから、善意とも訳し得る。そう、行いたいのです。でも何が善かと考える時、つい自分の正しさに偏りやすいから、互いに諭し合える恵みが、兄弟姉妹によって教会に与えられている。あらゆるキリストの知識に満たされて、そうでねえ、神様は私たちをもっと余裕のある福音の義しさに、赦しと愛の義しさに、受け入れて下さったがでねえ、イエス様を仰いで、互いに受け入れ合う、恵みの義しさに生きてえいがでねえと、互いに謙遜になることができる。互いにキリストの愛の前に、洗礼を受けた時のようにひざまずいて、一緒にキリストを礼拝し、一緒にキリストの救い、福音を、世に証していくことが「できる」。それがクリスマスに神様から与えられた最高の善、世界を救うキリストにお仕えして歩むことができる、教会に満ち満ちる善だからです。