ローマの信徒への手紙15章13節、イザヤ書40章27-31節「確かな希望に満たされ」

22/11/27 待降節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙15章13節、イザヤ書40章27-31節

「確かな希望に満たされ」

「満ち溢れさせて」。土佐弁で言えば、まけまけ一杯、もうお風呂から水がまけて溢れゆう状態ですから、豊かな希望です。もったいないとか言わない豊かな希望の中にドプンと身を沈めて、お~の、えい希望や、癒される~と希望に包まれてホッとしているイメージ。それが希望の源であられる神様から与えられ、満ち溢れるほどに私たちを包みこんで、私たちに生きる方向と力を与える、神様からの救いの希望です。

希望ですから、それは何かを望んでいる。その望み、希望に、生きる向きを方向付けられ、また力を与えられる。それが希望でしょう。学生なら、希望する学校に入りたい、じゃあ何をしなければならないかと、具体的な生き方、時間の過ごし方や、そのための努力が方向づけられ、よしやるぞと力が与えられる。単なる望みではない。希な望みと書いて希望です。方向と力を与える希望です。

ただ、人間の希望、自分がその希望の源である希望は、失望に終わることも少なくない。それを人に対して言ったりもする。あなたには失望したと。言うたらいかん言葉トップ5に入りそうです。言われた側が、勝手な希望を持たんとってやと思うこともあるでしょう。実際、失望に終わる希望が実は自分を源とする願望であったと気づいたことが皆あるのではないでしょうか。それでも人に対して願望を持つのが人間だとも言えますが、あまりに失望が多いと、希望が持てなくなる、前を向いて歩めなくなるのが、人間を源とする希望とも言えるでしょう。

その私たちに神様を源とする希望が与えられ、それが溢れさえすると御言葉は告げます。いや、祈り求めるのです。希望の源であられる神様に、どうか希望に満ち溢れさせて下さいと祈り求める。神様に由来する希望であり、祈りです。人間の力によって言わば頑張って満たす人間の希望ではない。天の父から、キリストを信じる者に与えられ、心の内にキリストを共に住まわせて下さっている三位一体の聖霊様が、そうだ、これは、希望の源である天の父が聴かれる希望の祈りだから、あなたも父を信頼して祈りなさい、わたしがそのあなたを満たすと聖霊様が満たして下さるのが、この希望。私たちに生きる方向と力を満ち溢れさせる神様からの希望。それが、今日から迎える待降節、アドベントの救い主であられるキリストによって世界が、人々が救われる希望です。

この祈りは、先週の12節「」の三行目「異邦人、まだ神様を知らない世界が、彼に望みをかける、彼に希望を持つ」と預言された、キリストによる救いの希望からブワッとほとばしった祈りです。その救いの希望の源である神様、御子を世界にお与え下さった十字架の救いの神様が!どうして私たちの人生を、その救いの希望によって方向付け、歩む力を与えないはずがあろうか。必ず与えて下さる。救いの希望に溢れさせ、救いに向けて、人々の救いのための人生を導き力づけて歩ませて下さるから、その神様を信頼する中にあるあらゆる救いの喜びと平和で、神様があなたがたを満たして下さいますようにと祈るのです。

「信仰によって」の直訳は「信頼することの中に」。つまり実際に信頼することの中で、主よ、あなたに私をお任せいたしますと、お委ねする信頼の中に、あらゆる喜びと平和があって、私たちを満たす。例えば、先週説き明かしました10節の「共に喜ぶ」三位一体の神様の永遠の愛の関係に由来する喜びです。自分が喜べて、自分が平安でいることが人生の目的だと本気で考える人はおらんと思います。無論、自分の喜び平安を望まん人もおりませんけど、それが人生の目的だと考えるとしたら、それは、人生に希望を持てなくて、将来に絶望しているから、今という現在を必死で満たそうとして、自分の喜び、自分の平和にしがみついているのではないか。自分に生きる方向と、そこに向かって自分を献げる力を与えてくれる希望が、持てないから、今に固執し、人生を、将来を失ってしまうことになってしまうのではないのか。でも本当は、そんな今とか自分に囚われた人生が、本当に目的が満たされた人生などとは誰も思わない。思わないけど、わかっていても、力がなくて、囚われ人となっているすべての人を、神様がその牢獄から救い出し、希望に導かれる人生に造り変えて下さる。その神様を信頼するのです。実際に、はいと信頼する中に、人間には作れない喜びと平和が満ちる。聖霊様の力によるとは、そういうことです。信仰という何かをやるのではない。神様の御言葉に、はいと聴き、神様ご自身が求められる故に、はいと祈る、神様との生きた信頼関係の中に満ちる喜びと平安によって、人は人生を取り戻すからです。私が生まれてきたのはこのためだったと、同じ希望のもとにある人々の救いのために、キリストの死と復活によって神様が保証される希望に、はいと身を献げ生きる。そこに自分では満たせない喜びと平和が、聖霊様によって満たされるからと、御言葉は祈るのです。

この待降節、皆でこの祈りを祈りたい。そして希望の源である神様を信頼する喜びの内に、世界の希望、キリストを共に仰ぎたいのです。