ローマの信徒への手紙15章7-9節、申命記7章6-8節「信頼できる神様だから」

22/11/13幼児祝福礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙15章7-9節、申命記7章6-8節

「信頼できる神様だから」

【こどもせっきょう】

園長先生が皆に言いました。「今度のクリスマスに、年長さんたち全員で行うクリスマス劇で、誰が何を演じるか、発表します。イエス様の役は、この人形ですが(笑)、そのイエス様を産むマリアさん役は…」。皆、のどをゴクリと鳴らして聴いています。毎年、年長さんが演じるマリアさんは、素敵な青い服で青い光に照らされて、マグニフィカトという歌を歌うのです。それがとっても素敵なのです。その「マリアさん役は、まりちゃん」と園長先生が言うと皆、え?と驚きました。まりちゃんは色んなことが上手くできんかったから。「え~」って皆まりちゃんを変な顔で見た。でも園長先生は「大丈夫。もしできなくても、助けられて、素敵なクリスマス劇になるき」と約束しました。

でも、まりちゃん練習でセリフを言えなくて、歌も歌えない。劇の日が近づいたある日、まりちゃんは「本当はできるのに、あんたのせいでできん」と隣りの子に噛みつこうとして、園長先生に「まりちゃん!」と叱られて、大泣きして、それから何日もお休みしました。きっと園長先生は、別の人をマリアさん役にすると思っていたら、園長先生が言いました「まりちゃんの死んだお母さんが園児やった時、約束したがよ。あなたの娘をマリアさんにするきって。園長先生が嘘ついたことある?」皆、ないと首を横に振りました。本当にないなと思いました。

劇の日、まりちゃんは園長先生に連れられて園に来て、マリアさんの青い服に着替えました。沢山の大人が劇を見に来て、電気が消え、劇が始まりました。まりちゃんは、セリフがつっかえるたびに、園長先生が小さな声で言って何とか言えました。でもマグニフィカトの歌の時は、園長先生が二階から光をあてるので、一緒にいない。そのまりちゃんに青い光があたって「神様がたた…、た…た」。その時、隣りにいたサマリちゃんが助けて「たたえられますように」と歌うと、もう一つ青い光がサマリちゃんも照らし、園長先生が手で「一緒に歌って」。「神様がたたえられますように」。すると他の子たちも「こんなに大きな愛で」そして皆が「私を愛してくれたから」「神様がたたえられますように。こんなに大きな愛で私を愛してくれたから」。皆、光の中で一緒に歌って、これが神様の愛ながや、本当に大きいねって、クリスマスをお祝いしました。

【説教】

もうクリスマスを祝ってしまいましたが(笑)、御言葉で「キリストが割礼ある者たちに仕える者となられた」と告げる時、それはクリスマスの神様の大きさを、改めて伝えているのです。

大人になって思うのは、他の人の小さなことが気になって腹が立つ時に、私は何て小っちゃな大人かと思う。幼子と一緒に祝福してほしいと思う大人はきっと少なくないでしょう。そして「仕える者となられた」神様は祝福して下さるのです。この大きな愛に一緒に生きようと。神様は小さくない。あなたに仕えてもいいけど、もしこの条件を満たしたらと細々した条件を愛されるための条件としてつけない。むしろ、条件はわたしが背負うから、来なさい、わたしを信頼しなさい、そこからこの大きさは始まると、十字架で全て背負われた大きな神様が、この愛に、一緒に生きようと祝福されるのです。

「割礼ある者」はユダヤ人の別名です。その先祖アブラハムに神様がなさった「約束」がある。それは「地上の氏族はすべて(つまり血縁によって結ばれる人間関係の一切が)あなたによって祝福に入る」つまり世界はあなたの子孫、キリストによって救われるという、クリスマスの約束です。それを確かに神様は守られた。だからユダヤ人でない異邦人も、日本でもキリストを一緒に礼拝しているのだろうと。あなたのためにも、キリストが来て下さった。祝福の約束を守るために。それは皆に対してそうなのだから、もうキリストによって、受け入れられる祝福の内にあるのだから、だから互いに受け入れ合って、一緒に神様の祝福に生きよう。もし心のどっかに、けんどあの人は何人やきとか、それが何であれ、どっか毛嫌いする小ささがあっても、その汚さをも神様が受け入れて、あなたを救うためにも十字架で死んで下さった。その憐れみの中で、受け入れてほしい。祝福に、共に歩もうと主は言われるのです。

それは神様の祝福が、ガチで、体を張った、口だけの祝福ではない、十字架で犠牲を払って受け入れるガチな祝福だから、その神様をたたえるのも、口だけではない。その神様のガチな憐れみのゆえに、私も相手を受け入れようと、その人と共に、キリストの祝福に身を置く。それが神様をたたえることだからと言ってもよいのです。

神様の大きな愛。たたえられるほど大きな、受け入れられない罪人を受け入れる憐れみと恵みの愛。信じられないほど優しくて、信頼できる神様の愛があるから、その憐れみの光に一緒に受け入れられて、私たちも互いに受け入れあう祝福に、共に身を置いて歩めるのです。ムカつくことがあっても。先週の説教で、受け入れられん何かにムカつくのは、胃がムカつく内臓感覚から来ていると言いました。吐きたくさえなる。それを土佐弁で、えずくと言いますが、まあそれぞれに、えずい何かを私たちは、互いに持っていて、それを受け入れるのは、えずい。聖書で言う罪のイメージの高知版とも言えるでしょうか。

ただ、自分のえずさほど、わからんもんです。受け入れることの実態は、体と心が反応する、えずさや痛み、怒りが問題になるので、頭ではわかっていても、たいてい役に立たんのです。この前も部屋にこもって仕事していると妻が入ってきて開口一番、すごいと。たたえているわけではなくて(笑)、何?と聴いても、いやちょっとと。で、トイレに立って部屋に帰ってくると、すごい(笑)えずい加齢臭と疲労臭と、他にも何かあるのかもしれませんが(笑)。きっと自分の罪のえずさは、もっとすごいと襟を正す他ない。自分はえずくないつもりで、妻がおかしい、夫がおかしい、子供が間違っていると思う。そうしたえずさが更に加わって、信頼関係と愛が汚されるのが罪のえずさだという罪の理解は、頭では理解できる。が、私はそんなにえずくないと、心で受け入れられない、えずい、自分はそんなに悪くないと拒否する自分という罪を、なら誰が引き受けるのか。自分で引き受けろ、自分の責任だという自己責任で、結局、救いに生きられないのか。それとも誰も責任を取らないで、みんな救われると口で言いながら罪が野放しで、結局、弱い者が泣きを見る、そんな無責任でえずい救いが、その名を愛と呼ばれる神様の救いだと、誰が本当に神様を信頼して、信じるのか。だからこそ!こんなにもえずい罪があるのに、本当は共に祝福に生きたいのに、生きられない私たちに、そうだ、祝福に一緒に生きてほしいと、神様が全ての人の罪の責任を引き受ける救い主として人となられた。罪人の救いのために、仕える者として罪の責任を負って、神様が人間の代表、主として死んで下さったから、救われるのです。全てのえずい吐き気がする汚い罪を、ご自分が背負って廃棄され吐き捨てられて死ぬことで、その償いと赦しと憐れみを代わりに差し出して、この大きな犠牲の愛で人を受け入れて下さるから、あなたがたも互いに、棄てないで、キリストの救いの祝福に、共に生きようと招かれるのです。

幼児祝福も、洗礼の祝福も、すべての人の、信頼できる祝福がここにあります。嘘を言わない、信頼できるクリスマスの神様、十字架の偉大な憐れみと祝福のもとに、私たちの生と死はあるからです。