ローマの信徒への手紙15章7節、ヨブ記19章21-22節「受け入れ合えないのに」

22/11/6主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙15章7節、ヨブ記19章21-22節

「受け入れ合えないのに」

受け入れなさい。敢えて言われるのは、なかなか受け入れられない、受け入れることを困難だと思う自分がいるからでしょう。最近は言わんなったのかもしれませんが、以前は、あんなこと言われた、超ムカつくという言い方をよく耳にしました。あれは、胃がムカついて、食べ物を受け入れられない、内臓感覚から来る受け入れられない心持ちが、言葉に現れた一つの典型です。人間関係でも、まさか相手を胃に納めようというのではないですが(笑)、その相手の何かしらを自分の心に納めようとすると心持ちが悪く感じられ、受け入れられないと思う。多くは自分の良し悪しの判断基準に反していて、それはいかんことや、良くない、だから受け入れられないと内臓感覚を含む心が判断する。それを、受け入れなさい、お互いに自分の良し悪しでは何か心が気持ち悪いところがあって、納めたくない、心で納得できんでも、互いを受け入れなさいと敢えて言われるのですから、それはつまり自分を超えて、受け入れ合いなさいと言われるのです。自分の良し悪しの基準を超えて、神様の基準で「キリストがあなたがたを受け入れて下さったように」そのキリストに、あなたが受け入れられた基準で、互いを受け入れなさい。

ならば各自は、自分がどのようにキリストに受け入れられたのかを心に留めることなしには、やはり何かムカつく気持ちに負けそうになる。気持ちが悪いのは、次第に治まっていきます。キリストが、どのように私を受け入れて下さったのか、そのキリストを知る関係が深まると共に相手を受け入れることが、感情的にも納得できるように変えられていくからです。ならば尚のこと、キリストがどのように私を受け入れて下さったのかを心に留めて、そこから離れないようにする。聖餐式のごと、キリストが、わたしを記念して、つまりわたしを思い出して、わたしを忘れることなく、このように行いなさいと命じられて、はい、と聖餐を受け入れるように。キリストがどのように私たちを十字架で受け入れて下さったのかを、我が主、我が神よと、忘れないようにするのです。

福音書に刻まれた、多くの罪が赦された女性とイエス様との話を思い出します。ファリサイ派の家に招かれたイエス様の足を、その人は涙でぬらし髪の毛で拭って足に口づけ香油を塗ってイエス様をもてなした。受け入れたと言ってもよい。それを見た家の主人が、この女性は罪深い女性やに人ん家で何しよらあ、イエス様はその罪がわからんがかとムカついた。するとイエス様が、わかる、この人の多くの罪が赦されたことが、わたしへの愛の大きさからわかる、と女性を向いて、あなたの罪は赦された、安心して行きなさいと言われた(ルカ7:36-50)。

キリストが私たちを受け入れられたというのは、罪を不問に付したというのではありません。むしろキリストこそ誰よりも罪をご存じです。罪はキリストが担うべき罪だと。そのために三位一体の御子が、すべての罪を負うためのキリストとして父なる神様から選ばれて、私たちの罪を負われたキリストが言われるのです。それ以外の罪はないのだから、わたしを不問に付した罪は思わないでくれ。わたしは主、あなたの罪を背負って、あなたを赦して受け入れた神だから、わたしをおいて他に、受け入れる受け入れないの基準があってはならないと。

それが神様の栄光のために、私たちを受け入れて下さったキリストに従って、私たちが互いに受け入れる、キリストという神様の基準です。人に言われたからではない。皆がやるからでも、やりやせんからが基準でもない。キリストが、あなたを愛していると救ってくださったから、はいと、キリストにひれ伏す。それが「神様の栄光」です。

栄光と訳される言葉は、すぐ前6節の「たたえ」るの名詞で、称賛、すごい、すばらしいという意見のことです。例えば教会総会で、これが次年度の計画です。ご意見はありますかと尋ねて、すばらしい!大賛成という意見が出るイメージ。更に大胆にイメージするなら、天の会議で父なる神様が議長をされ、御子と御霊も議長団に座られ、天使が集まる会議で、父が、罪を犯し滅びゆく人間の救いの計画を発表する。御子が彼らの身代わりに死んで、すべての罪を償い、神の義を全うし、御子に結ばれる子たちを永遠に赦して、恵みによって救う。ご意見のある方。はいとサタンが手を挙げて、彼らの自業自得でしょう、何で受け入れないかんのですかと反対意見を言う。御子が立たれ、議長団席から離れ、議場のマイクから、賛成です。父よ、あなたの御名をたたえます、神は愛ですと意見を出されて、地上に、飼い葉おけのみどりごとして十字架で死にに来て下さった。私たちを神の子として恵みによって受け入れるために。そのように、です。主に従い相手を受け入れようと立ち上がる心に、でも肉が、反対、ムカついて受け入れれんと反対しても、御霊によって私たちの内におられるキリストが、賛成、あなたと共に父の栄光をたたえたい、賛成と、私たちの背を笑顔で叩いて一緒に立ち上がってくださる。だから神様の栄光のために、教会は受け入れ合えるのです。