ローマの信徒への手紙15章4-6節、詩編119篇89-96節「キリストの忍耐に倣う」

22/10/30主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙15章4-6節、詩編119篇89-96節

「キリストの忍耐に倣う」

「それで私たちは、聖書から忍耐と慰めを学んで、希望を持ち続けることができる」。これが聖書の記された目的、そして聖書の読み方です。聖書から忍耐と慰めを知って、希望を持つことができる。あるいは失うことのない希望を、だからその通りに失わず、むしろ忍耐が失われて、もう、こらえられないと倒れる時にも、希望が私たちを支えるのです。そうだ、それでも大丈夫なのだと、希望に慰められるのです。その希望を丁寧に言えば「the希望」。逆に雑になったかもしれませんが(笑)、あの希望、ズバリ言えば、神様がキリストによって約束して下さっている望みです。人間が自分の望みを、神様に叶えてと願うのではなくて、神様が!どうしても私たちに必要な救いを望んで下さった。そのために代わりに罪を背負って死んでさえ下さって、約束する、キリストの死によってあなたは救われる。キリストが救う。あなたの願い通りにならなくても、わたしの約束を信じなさい。わたしを信頼しなさい。わたしは主、あなたの神だから、わたしがあなたたちの救いのために、すべてが益となるように、人間の思いを遥かに超えて、すべてが報われる救いを約束するから、その希望に生きよ。これがその証拠だと与えて下さったのが聖書なのです。

それを、ただ知識として読んでもピンとは来ない。その約束と、約束をなさる神様を信頼して、約束を求めて御言葉に向かう時、慰められるからです。皆さんも忍耐を要する試練の中で御言葉を聴き、いつもよりグッと神様に慰められたという体験があると思います。それを信仰告白は「聖書は…神と救いとについて完全な知識を私たちに与える神の言葉であり、信仰と生活との誤りのない基準であります」とセットで言います。完全な知識だけれども、信仰と生活から離れては、知識なのです。生きる苦しみや忍耐の中で、その忍耐を一緒に負って下さっている神様が、大丈夫だと約束して下さっている。その約束を、アーメンと御言葉から聴く時に、これが希望だと私たちは知るし、その希望に照らされ、御言葉に従って忍耐して生活する教会の兄弟姉妹の姿を見る時、同様に神様の慰めと希望を受ける。そして一緒に神様をたたえるのです。

ちょうど4年前の明日、鈴木先生が天に召されました。その数日前に吉永長老たちと訪問しました。末期がんで食事も取れず痩せ細った鈴木先生が、きっと息をするだけでしんどいのを忍耐されながら、終始あの笑顔で、ありがとう、よろしく頼むよと、最後のお別れを皆としてくれました。その病室の何と希望に溢れていたことか。主が永遠の命を約束して下さっていることの力強い慰めと希望が満ち溢れていました。聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続け、その希望に照らされて生きる忍耐の姿を、私はその笑顔に見ました。いつも見ていました。

先生も私も石頭なのは多分バレてますが(笑)、私が伝道師になりたての頃、聖書の解釈で、意見が分かれても、お互い譲らない(笑)。そんな時、よく先生は、残念だねと穏やかに微笑みながら言うけど、目の奥で1㎜も譲ってないという(笑)忍耐を、本当に忍耐をされておったなと、この御言葉から身近に思わされました。忍び耐えると書いて忍耐です。忍ぶ、忍者のように自分を隠すのが忍耐です。土佐弁で、片づけるのを忍べるというのも、言わば隠すのです。どこに忍べたか分からんなったら本物でしょう(笑)。忍耐も、自分の思い、自分の正しさはあるんですが、相手を受け入れる、互いに愛する関係に生きるために、自分は忍べて、笑顔で相手を受け入れようと忍耐する。忍耐しようと思えるのは、そこで本当は忍べ切れてない目の奥で、その私たちを永遠に救うために自分を犠牲にして受け入れて下さった神様の、救いが実現する希望を、御名があがめられますようにと、仰ぎ見るからでしょう。

これ、先生の記念礼拝ではないので(笑)、鈴木先生はえらいねえ、で帰らないでいただきたいのですが(笑)、では何を礼拝から持って帰ればよいか。皆、希望を持ち帰って下さい。私たちの主イエス・キリストの父なる神様を、心を合わせ声をそろえてほめたたえるために、キリストによって救うと約束された神様の希望を持って、礼拝から遣わされますように。まあ、すぐ避難訓練もありますが(笑)。もしかしたら、希望を持って礼拝から帰った後、地震が来て、その希望はどこに行ったのかと思う災難に遭うかもしれない。ヨブのように、こんなことが起こったのは神様が間違っていると思うことさえあるかもしれない。そう思いたくないのに思わざるを得ない弱さも、でも神様は忍耐して下さる。弱さも怒りも罪さえも、主イエス・キリストの神様が、忍耐と慰めの神様が!すべて十字架の愛で受けとめて下さったから、私たちもまた人間の思いを超えた希望のもとで、人間のできるできんを超えた十字架の憐れみと忍耐の中で神様が!救って下さるとの希望を持って生きられるのです。万事が益となるように人間の思いを超えて救われる神様の希望に照らされて、キリストがくださる永遠の命の慰めを共に仰いで歩めるのです。