ローマの信徒への手紙15章1-3節、イザヤ書53章「強い人は弱さを担う人」

22/10/16主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙15章1-3節、イザヤ書53章

「強い人は弱さを担う人」

おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきだ。直訳はこうです。「私たち各々は、隣人を喜ばせなさい、あの善のため、建て上げることに向かって」。あの善のため、建て上げることに向かって。

隣人を「喜ばせなさい」と訳された言葉は、1節3節で「満足を求める」と訳されたのと同じ言葉です。誰しも、満足したらニッコリ喜ぶ。逆に不満があるとムスッとしやすい。何故か。求めが満たされんからでしょう。急所は、それが誰の求めか。その求めが誰にとっての「善」かです。善は、こりゃあ善いと思うから求めるし、その善が満たされたらニッコリ喜ぶのも、誰しも同じです。神様も。それが急所です。

右の頁下16・17節をおさらいします。「ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国(神様の救いのご支配)は飲み食いではなく、聖霊様によって与えられる義と平和と喜びなのです」。自分にとっての善が、例えば私なら寝っ転がって新聞を読みゆう時、この平和が乱されんことだと思う善が、ピンポンがなるとムスッとなる。どんばあ小っちゃい人間で(笑)と苦笑いしますけど、その時は俺の善!が乱されたと、自分のことだけになって、もし、その顔で玄関に出て、配達の方が教会を悪く思ったら!

では、どうすべきか。自分の善を求め行う時であっても、「あの善」のために隣人を喜ばせなさいと求められる、神様の善を、十字架の恵みのご支配を求めて、例えば新聞も読むのです。喜びたいのは自分だけじゃない。隣人も喜びたい、満たされニッコリしたいでねえと我が事として思い、そうやって生きて死んで下さったキリストの愛のご支配、神の国を求めて生きるのです。その生き方、自分への死に方によって、教会は十字架の神様が死ぬほど人間を愛しておられることを伝える。あなたに救われて生きてほしいと担って下さっている神様を証しするのです。

2節の「互いの向上に努める」という言葉の直訳は「建て上げることに向かって」だと言いました。それは、このように神様を証しする教会を「建て上げること」に向かって、さあ「おのおの隣人を喜ばせよう」という意味です。その隣人は、もちろん教会にもいる。むしろ教会には来られてない隣人に神様を証しするためにも、そして礼拝に来た時に、もう来んでえいわと思わんためにも、教会の兄弟姉妹たちが、おのおの自分より兄弟姉妹の喜びを思って生きようと言われるのです。そしたら教会は、これも右頁下18節ですが「神様に喜ばれ、人々に信頼される」。「信頼される」は「本物と認められる」だと、これを説教した時、鈴木先生たちが自分を捨てて、神は愛ですと伝道していた姿を見て、本物やと思った話をしました。この教会も、そうやって建て上げられてきたのです。自分を顧みない愚かな神の愛が、十字架で私たちを担われた神様を証しするから、人間の強さ弱さを超えて本当に神様はおられるがやと魂に訴え、証言する教会を建て上げるから、その教会を目指しなさい。キリストの体を建て上げる成長に向かって、特に「強くない者の弱さを担うべき」だと言われます。

「べき」と訳された言葉は「義務がある」「返済義務のある負債がある」です。つまり弱さを担う義務、神様に返さないかん「弱さを担うという借り」があるから、担うことで借りを返すのだと言うのです。誰が返すのか。「強い者」。元の意味は「できる」強い人です。その人はどうして「できる」のか。できる力を、神様から与えられたから。しかも、その力によって、できない人の弱さを担う時、神様が、そう、その善のために与えた力を、あなたは義しく用いた、そのできない兄弟にしたのは、わたしにしてくれたのだ、わたしに返してくれたのだと喜んでくださるからとも言えます。教会はキリストの体であり「各自は互いに部分だ」(12:5)と言われた通り、例えば目が見ることができて、鼻が見ることができないのは、神様の目的があるからで、人間のできる・できないで考えると、教会は歪んだ顔になる。建て上げるで言えば、傾いた建物に誰が近づきたいでしょう。むしろ、この教会、会堂はあれやけど(笑)居心地が良いと思う教会は、自分ができるできないで生きなくてよい、神様の愛のご支配を信頼して生きて良いのだという喜びが、その教会で弱さが担われていることで感じられる。そこに聖霊様による義と平和と喜びが、人間の力の支配とは違う満足が、感じられるからでしょう。

3節で言われる神様へのそしり、例えば、悪態をつく隣人がいても、自分はできるから満足して喜べる兄弟姉妹は、できんき不満な隣人に、不満を言いなと不満顔で言わんのです。むしろ不満を言わずにおれん人の弱さを担うために、自分の満足を捨てて、そしたら喜べんなる弱さを担い引き受け、私たちの神様、見捨てないで下さいとキリストと一緒に嘆けばよい。信頼するが故に神様に嘆くのです。その嘆きを、十字架の神様は救いの喜びに変えて下さると、キリストに担われ続けて、信じて愛せばよい。救い主の御体、教会は、そこに建て上げられるからです。