ローマの信徒への手紙14章20-23節、箴言9章10-12節「信頼関係を迂回する罪」

22/10/16主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙14章20-23節、箴言9章10-12節

「信頼関係を迂回する罪」

その罪を!どれだけ多くの私の罪、兄弟の罪、姉妹の罪を、キリストが背負って死んで下さったか。私たちはどれほどキリストに背負われ、赦され、救われて生きていけるのか。

「すべて」です。すべて!それを確信すればよい。キリストの完全な憐れみの十字架を。人となられた神様の信じられないほど大きな恵みと赦しの十字架を。キリストが、あなたを、あなたの家族も、そのすべての罪を背負って死んで償って下さったことを、ありがとうございますと信頼して、神様に身を委ねるのが信仰だからです。

先週の繰返しになりますが、23節で確信に基づいてと言われるのは、「信仰から出発して」という言葉です。例えば礼拝の後、皆さんを祝福して送り出します。誰一人ここから呪われて出発する人はいない(笑)。皆、祝福します。あなたも、あなたも、キリストに背負われての毎日がここから再び始まると祝福する。罪を犯すかもしれない。それでもそのすべての罪を十字架で背負って救われると決められた三位一体の神様の御名によって、一人残らず祝福して、さあ出発しましょうと、新しい日々に私たちは出発していく。いや~私はでも…と疑う人もいるかもしれません。だって説教が何ちゃあ響かんかったと言われたら、ごめんなさいとしか言いようがありませんが、それでも信頼してよい。自分がどう感じるかをじゃなく、その感情も確信も、理解も時をさえ越えて、すべてを超えて!神様が、自分中心に囚われる人間を救いに来て下さったと。そしてすべてを背負われた十字架の神様が祝福の内に共にいて下さる、その約束の中に、はいと身を委ねて出発する。皆、祝福から出発する。その祝福の目指すゴールが、神様との信頼関係としての信仰なのです。神様の祝福は、その信頼関係においてこそ、満ち満ちます。

だからこの御言葉は「神様との信頼関係から出発して」と言い直すと一番わかりよいのではないかと思います。次の15章1節で「強い者」と言われますが、それは確信が強いのではなくて、むしろ自分の確信など信頼せん神様との信頼関係が強いのです。確信ある?と聴かれて、ないけどイエス様に背負われて見捨てられんき、助けて下さいって祈って、お委ねしていくという信頼関係が強い。その信頼関係から「すべて」のことを出発して、一緒に祝福に歩もうと招くのが、この御言葉です。

確信してないがは全部罪だと裁いているのではありません。むしろ、どうしたら、自分は絶対にこれが正しいと思うという自分から出発しなくて済むか。また世の中の常識や、だって皆やりゆうきから出発して、更には、だって教会が決めたき、この教会は皆そうやってやりゆうきと人を見て、神様との信頼関係を迂回して、それは罪だと神様に裁かれる生き方にならないで済むか。一体どうしたら神様との信頼関係の祝福に歩めるのか。しかも、それこそ確信が違う兄弟姉妹たちと一緒に、でも同じキリストを信じ、同じように背負われて、互いに幸いな信頼関係に歩めるか。それは、すべて!を神様との信頼関係から出発することだ。すべてのこと!と、ハッキリ言うのです。例外はない。私たちのすべてのこと。したいこと、嫌なこと、誇りに思うことも惨めに思うことも、すべてが神様の御手のもとにあることを、改めて思い出すのです。その神様を信頼しなさい。すべてを背負われた神様を信頼し、その信頼関係から、すべて出発すればよいと招く。その信頼の相手は、すべての人を背負われた神様だから、その信頼関係から、はいと出発するなら、もし、うまくいかず、自分の思い通りでなくても大丈夫。キリストが大丈夫だと保証して下さっているからです。

具体的に言えば、信頼関係から出発するのですから、自分が、これは罪やおかと疑うことを、祈って尋ねるのです。自分の悩みを伝える関係は、それを聴く相手からすると信頼してくれているのだと思う。神様はなおさらです。信頼関係から出発して、実際に主に思いを伝えて、その答えを御言葉から求めるのです。罪かどうかハッキリせんことも多いでしょう。ホラー映画を見るのは罪か。私に見せるのは罪です(笑)。どれぐらいの性的描写なら映画や漫画で見てよいのか。それは結婚の相手、あるいは将来の結婚相手が不快に思い、信頼関係を汚すものは罪です。それを神様に当てはめたら、信頼関係から出発しないのは、すべて罪だと言われる意味が、具体化するのではないかと思います。信頼関係から出発する。そこには必ず相手がいる。相手との関係を大事にせず、自分の思いや感情に基づいて、やる、やらんと決めてしまう。神様との関係も。信頼関係から出発しないのが罪なのはハッキリしています。だからもし皆さんの中に、一人で疑っていることがあったら、一人でこれは罪じゃないかと悩んでいることがあったら、教えて下さい。私も、これは罪かどうかと多くのことで、また関係の中で悩み祈り、御言葉に聴いてきました。その苦しみも、罪さえ、主が清め用いて下さいます。信頼の義しさの中で、私たちは皆、清められ、神様の働きに用いられるのです。