ローマの信徒への手紙14章20-23節、箴言21章13節「ブレない信頼ゆえの愛」

22/10/9主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙14章20-23節、箴言21章13節

「ブレない信頼ゆえの愛」

「確信に基づいて」と訳された言葉は「信仰から出発して」神様との信頼関係としての信仰から出発してという言葉です。詳しくは次週また説き明かしますが、自分に確信があるかないかという独り善がりの確信をイメージすると、それこそ神様の働きが無にされるような話です。

神様のお働きとは何か。献金の時それがよく祈られます。感謝と献身のしるしとして献金を献げます。私たちを聖めて、あなたの手足として用いて下さいと祈られる時、心からアーメンと祈ります。神様は私たち一人一人により、教会によって救いの御業、伝道の働きをなさる。教会がキリストの体と呼ばれる所以です。

それが無にされる。直訳は「バラバラにされる、破壊される」です。どんなに正しい説教が礼拝で語られ、正しい祈りが捧げられても、もし報告後、今日は青年たちでカラオケに行きま~すと、まだ早いがやないと思う人はまだしも、そんな不良が行くところに行かれんと言う教会員と、えいえいお金も出すと言う教会員が言い合ってバラバラになると、その礼拝に神様が招かれた求道の兄弟姉妹が、また来ようと思うでしょうか。カラオケのために神様の伝道の働きを、キリストの体をバラバラにせんとってくれと言うのは、よくわかるのでないでしょうか。

すべては清いというのは、食べ物に限りません。明らかに聖書で罪とされている性的罪や言葉による罪などは別ですが、21節で言われる酒も飲むこと自体は悪じゃない。ただ「そのほか兄弟を罪に誘うようなこと」と言われると、では肉食と飲酒は罪に誘うこと確定(笑)で肉と酒の他にも望ましくないことがあると誤解しやすいでしょうか。直訳は「そのことによってあなたの兄弟がつまずかないのが良い」です。望ましいと言うと、まあ、つまずいても別にかまんけど、できたら…という曖昧で相手の自己責任にするような印象を私など嫌らしく思ってしまいます。でも良し悪しの区別はハッキリしちゅうのです。20節「すべては」以下直訳します。「すべては清い。しかし、つまずかせて食べる人には悪い良いのは…」と良し悪しを分ける線引きをして、その上で「肉食せず、飲酒せず」と具体的状況に当てはめる。でもその大原則は「そのことによってあなたの兄弟がつまずかないこと」これがルールです。もし誰もつまずかない状況なら、肉も酒も清いから、つまり良いも悪いもない。でも、つまずく人がおって、カラオケは不良が…、クリスチャンなのに麻雀(笑)と際限なく続くのですが、先に言った明白な罪は別にして、すべては清い。良いも悪いもない。でも、人をつまずかせてでもそれを行うなら、それが悪い。つまずかせる人には、清いも悪い。つまり相手との関係を、しかも間にキリストがおられて、あなたがたは世の光だ、十字架の救いの証しを輝かす、互いに愛し合う兄弟姉妹の関係を大切にしなさいと招かれる関係を壊して、だってこの人が、とやるのが悪い。その相手がキリストに背負われている憐れみも、自分も全く同じように背負われている憐れみも、関係ないように壊すのが悪いのです。

だから解決は、いつもキリストのもとにあります。キリストに背負われて、私はあると。だから私はこれをして良いし、また同じように主に背負われた、この兄弟姉妹のために、これをしないのも良いと。すべてキリストとの関係から出発して、する、せんの良し悪しを、よしと確認するのです。22節の「神様の御前で」が、それです。神様の見ておられる御前で、主よ、これをするか、せんか考えていますが、明白な罪ではないので、それ自体は清いと確認しますと、御言葉から確信を受ける。それが「自分が抱いている」確信、直訳は「信仰、神様との信頼関係としての信仰を、神様の見ておられるところで持つ」ということです。

その後の「自分の決心にやましさを感じない」と訳されたのは、先週18節で「人々に信頼される」は、金銀お金が「テストされ本物であると認められる」という意味だと言いましたが、それと同じで「自分で本物だと確かめたことによって自分を裁かない」です。つまり、清いこと、例えばカラオケ自体は聖書に明らかな罪じゃないきかまんとキリストの見ておられるところで、うん、やっぱりかまんと神様との信頼関係の中で、これは本物やと確かめたことを、でも、カラオケにつまずく兄弟のために、行かんことにする。でも本当は行きたいので(笑)、やましさを感じて、まるで自分は罪であるカラオケを愛している罪深い人間だと、勘違いして自分を責めることがあるかもしれない。でも責めなくてよいと言うのです。あなたが兄弟をつまずかせないために、してもよいことをしないことにして、それでもしたいという思いに悩んでも、あなたは兄弟のために悩んでいる。その愛の苦しみを、十字架の主はよくご存じだから、その思いも何もかも全部、改めてキリストの前に差し出して、見て下さい、私の悩みを、私の思いを、でも私は、あなたの救いの御業に生きたいのです、主よ、聖めて御用に用いて下さい、あなたの手足として下さいと祈ればよい。キリストが、あなたを祝して用いられます。