ローマの信徒への手紙14章18-19節、イザヤ書9章5-6節「キリストの愛の奉仕者」

22/10/2主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙14章18-19節、イザヤ書9章5-6節

「キリストの愛の奉仕者」

「キリストに仕える人」と聴いて、思い浮かべるのは、具体的な誰かでしょうか。例えばマザーテレサのような人を思い浮かべて、あの人のように私もキリストに仕えたいと、誰かの奉仕する姿に励まされ自らの向上を求めることもあるでしょう。キリストに仕える私として向上する、上に向かうイメージとも言えますが、そこには、自分だけがいるのではない。世の中の自己実現や自分磨きが求めさせる、上を向いて見ているようで、実際は上を向いている自分を求めているという向上とは異なるのです。御言葉は「互いの向上に」と言います。自分の向上ではない。天にまします我らの父が喜ばれる「キリストに仕える人」として我らが向く上は、その私たちを罪と滅びから救いに来て下さった、キリストが神の右に座しておられる、主が引き上げて下さるだからです。

既にその私たちが向く上について、上の段11節で、終わりの裁きの日の情景が描かれました。裁きの時、すべてのひざが主の前にひざまずき神様をほめたたえることになる。その日が来ることを忘れないで、上を向いて共に歩むのです。そのために十字架で死んで下さったキリストのものとして、平和の王であられるキリストに仕える者として呼ばれてない人は、一人もおられないからです。

なら、どのようにキリストにお仕えすることが求められているのか。「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます」と言われる「このように」とは、どのようにか。先に申しました終わりの日について、主はこのように教えられました(マタイ25:31ff)。裁きの座で、キリストから、あなたがたはわたしが飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、宿を貸し、服を着せ、病の時に訪ねてくれたと言われて、主よ、いつあなたにそのようにお仕えしたでしょうと言う者たちに、王は答える「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのだ」。小さいだけでなく、最も小さいから、つい見落とされそうになる、踏まれそうになる、いなくなってもわからないかもしれない誰かのためになした愛の業を、キリストは、わたしに仕えてくれたのだと言って下さる。前の17節で、キリストが我らの救いのために持ってきてくださった神の国、神様の救いのご支配が、そこに来たるのです。キリストがどんな人をも決して見落とされず、むしろこの人のためにわたしは死んだ、この人はわたしだから、どうかこの人を愛する正義を、見落とさないで、仕えてほしい、「このように」互いに愛する教会を、わたしに仕えて建て上げてほしいと、平和の王が求められるのです。そのようにキリストに仕える教会を、神様は喜んで、人々を救う御心のために祝福されます。

その教会は「人々にも信頼され」るから。直訳は「確かめられ本物であると認められる」。それが信仰に至るまでの信頼には至ってなくても、ああ、清和の横の?あの教会は本物でと言われたら、どれほど私たちも嬉しいか。またどれだけ、よしもっとキリストの愛に仕えよう、主よ、御国を来たらせたまえ、と励まされるか。御言葉は、そうなるから!と励ますのです。

古い証しを繰返しますが、私は中学時代、南国教会で鈴木牧師夫人に英語を習ったのが一つの導きとなり留学先でキリストに救われました。当時の南国教会牧師館が隙間風の吹きそうな古い木造だったのを覚えています。冬休みに帰省して、純さんに挨拶しに行ったら、牧師館が新築されていた。良かったやかと思ったら若い伝道師が出てきて、鈴木先生たちは舟戸で新しく教会を始めたと。行ったら今はこっちに持ってきた教会の看板があり、もしその看板がなかったら、たぶん教会とわからん小屋みたいな借家の更に奥に、え?て言うぐらい古い家を借りて還暦を超した牧師夫婦が引越して、神は愛ですと伝えていました。南国教会の新しい牧師館には若い牧師夫婦を招いて、自分らは住めたらえいと更に風が吹くような家で暮らしながら、清和の学生たちに英語を教え、自分たちに与えられた恵み、できることはすべて人々の救いのためにお献げして、キリストにお仕えしておられました。私は当時21歳で、教会にも行き始めたばかり、聖書も読み始めたばかり、まだ教会のことも信仰のことも何もわかってなかった、神様のことも三位一体も、ほとんど何もわかってなかったけど、ただ一つ、キリストが私の救いのために死んで下さったこと、そのキリストを私は私の救い主、主として受け入れた、それだけ知っていた私は彼らを見て、本物やと思いました。私の知ったキリストを、彼らは、そのようにキリストに仕え、証ししていました。そのキリストの言葉を聴いて、神様に喜ばれる礼拝を献げ、キリストにお仕えしていた教会が、祝福されなかったはずはありません。無論問題もある。罪で平和が乱されることが起こる。人間です。赦されなければ共に歩めんのです。だからキリストが死んで下さった兄弟姉妹に互いに仕え合う教会を神様が祝されます。そこに本物の福音があるからです。