ローマの信徒への手紙14章16-17節、イザヤ書32章15-20節「救わない善より恵みを」

22/9/25主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙14章16-17節、イザヤ書32章15-20節

「救わない善より恵みを」

本来は、善いこと、喜びをもたらすはずのことが、そしりをもたらすことが起こりうる。例えば十字架の神様に賛美の歌を歌うことは聖書に証しされる善であり、私たちはその善きことを味わったばかりでもあります。けれど説教中に私が讃美歌を歌い始めたら、まあ説教で讃美歌の一部を引用することはありますが、4節しかも気分よく歌い続けたら、長い!と、たぶん妻と益先生がユニゾンで怒ると思います(笑)。

善いことだから、それ自体は善だから、は説教中に賛美を歌ってよいと思った理由になりません。もし本当に、そう考えて歌ったとしたら、その考え方が間違っている。そこに問題がある。おわかりだと思います。一緒にいる相手のことを考えてない。そこに、考え方を間違った原因があります。相手のことを考え、相手の気持ちを考えて、じゃあ、その人と共にいるところで、これをするのは、それでも善いことかと考える。言い換えれば、共にいる私たちにとって、これをするのは善いことかと考える。それが我らの父の喜び我らにもたらす考え方でしょう。

16節で「あなたがたにとって善いこと」の直訳は「あなたがたの善」。まるで、これ誰のスマホ?と言われて、あ、私のと言うように、これは私の善いこと、これは俺の善と、ほとんど自分のものになっている善があるとも言えるでしょう。先に、考え方が間違っているという話をしましたが、実際は私たち、疑いようもなく自分のものだと思っていることは考えない。一人で讃美歌を歌う時も好きな讃美歌を好きに歌うのだと思います。また、その善いことを共に喜べるグループなら、あまり相手のことを考えなくてよいから、共に楽しみやすい、楽という実際もあると思います。問題は、同じ喜びを共有できない人やグループと共にいる時に、どんな喜びを求めるか、です。相手のことを考えない楽な喜びを求める心に、聖霊様による喜びがあるか、なのです。

だから既に御言葉は、善とは何かをわきまえるために「あなたがたはこの世に倣ってはならない。むしろ理性の刷新により、あなたがたの形を変えられなさい。何が神様の求めか、つまり善で、喜ばしい、完全なゴールかをわきまえるために」(12:2)と教えました。教会でも、仲良しグループの善や求めがあるのはかまいません。ただそこで、主の祈りを祈り、御国を、神様のご支配を来たらせたまえと祈るかなのです。楽な喜びを求めやすい人間の支配に、神様の求めを、御国を求め祈る。何がその仲間の形、自分の形、喜びの形を支配するかは、変わらざるを得ません。飲み食いが代表する自分の喜びには支配されなくなる。我らの父の求めを先ず求めるところでは、違う喜びが与えられるからです。

神様の求めを求めたら、楽ではなくなるかもしれない。それでも御国を来たらせたまえと祈る。もし自分が楽しい生き方を選ぶのを喜ばしいと思うなら、愚かな祈りを捧げているのです。楽な喜びより、聖霊様によって与えられる父の喜び、十字架の愛の義の喜びのほうが、私の善だと信じる祈りを、捧げているのです。この喜びは過ぎ去らないからと。飲み食いの楽しみはトイレ行く前に過ぎ去ります。本当に残りません。残らないものを求める生き方も、大急ぎで過ぎ去る。違うでしょうか。でも私たちは、いつまでも残る信仰と希望と愛を求める(コリント一13:13)。神様への信頼、救われる希望、神様から愛され互いに愛し合う愛の生活を追い求めます。楽に生きるがが一番でという考えも、病気になり、老いて生きるのが楽でなくなったら残らんのじゃないか。だから安楽死が一番だと本気で考える、人間の思いが支配する世界に私たちは生きているのに、そんな世界でも知っているのです。愛が要ると。人のことを考えない独り善がりは、そしられるのです。教会は特にそう。愛がないと言われる。おんしにはあるがかと言いたくなっても、でも何で言われるのか。信じたいからじゃないか。本当は愛が一番だと。でも愛されない現実、愛せない現実の中で、愛が一番だと信じられない世界に生きていて、でもそれを信じて生きている教会を見て、そんなこと本当に信じていいのか、本当にいつまでも残るのかと見ているのです。

単に自分から出て信じる信仰なら残りません。単に人間から出た神様が死んで世が救われたらという希望なら残りません。もし単にイエスという名の偉い人間が、神の愛を説いて死んだだけなら、神の愛などないから、楽に愛せる愛で満足して、自分の善を楽しめばよい。でもそんなにも自分に支配される人間を、愚かにも死ぬほど愛し背負われた十字架の神様を、私たちも愚かにも信じ、愛している。だから、祈っている。御国を来たらせたまえと祈りなさいと教えられた主が、そうだ、永遠に残る命のために自分より相手を選ぶ愚かな義しさを信じろと、人を救うキリストの義を、信じて教会は祈っている。そんな愚かな教会が聖霊様によって残るのです。ただ聖霊様がくださる、義と平和と喜びと共に。人には作れないから愚かに見える、その喜びを、信じて祈り求めるのです。神様が愛される世が、これを見て、信じて救われるためにです。