ローマの信徒への手紙14章13-15節、イザヤ書46章3-4節「あなたのほうが大切!」

22/9/18長寿祝福礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙14章13-15節、イザヤ書46章3-4節

「あなたのほうが大切!」

愛することを、教会がどれほど気にかけておるかが、よくわかる言葉ではないかと思います。それはまた、私たちが愛に従って歩むことを、神様が、どれだけ気にかけておられるかが、よくわかるということでもあります。

神様が、私たちの歩みを気にかけて下さっている。それは長寿を歩む兄弟姉妹のことに、もちろん限りませんが、長く生きれば生きるだけ、知ることになる命の真実もあると思います。命は人の思い通りにはならない。人の命も、自分の命も。だからこそ愛おしみ、愛し、思い通りになって然るべきことさえ、ならない悲しみを互いに慰める。そこに愛もある。なのに、その愛こそが人の思い通りにならない。愛することも、愛されることも。その命の欠け、罪の悲しみを、私たちの創り主であられ救い主であられる神様に、だから差し出して赦しを願うのです。その命を救うために、十字架で罪を覆って赦して死んで下さった神様から、命の祝福をいただく、祝福の礼拝を共に捧げるのです。あるいは自分で命を好きにできるなら、礼拝など来ないのが人間なのではないでしょうか。けれど頑張っても届かない、真実の命の祝福があるのではないかと知る時に、人は、神様を求めるのだと思います。ようやく気になるとも言えるでしょうか。命のこと。愛することが。そしてその命、私たちの愛の歩みを、神様は、ずっと気にかけてくださっている。

ひるがえって、では私たちは何を気にして、何が気になって、日常を歩んでいるでしょうか。愛の歩みは、いつもそこに準備されているとも言えるのです。ここで言われる「あなたの食べ物」というのは、当時の教会で、ユダヤ人からキリスト者になった兄弟たちは、例えば豚の肉を食べない。知識としては、汚れてないと、教会によって全世界に神様の救いが宣べ伝えられるようになった今では、特に食べ物の汚れは、もうなくなったと知識としては知らされてもです。それでも心で、やっぱり汚れた肉はよう食べんと思っているのに、ユダヤ人ではない兄弟姉妹が愛餐会で、この酢豚おいしい、まあ食べてみてと、相手がユダヤ人なのを知っちゅうのに、おいしいのに、と言うなら、その相手は心を痛めて悲しい思いをすることになる。

それはもはや、愛に従って歩んではないのだと主は言われるのです。もし、あなたの兄弟姉妹が痛みに思うことを、そんなことは痛みに思うようなことやないろうと痛みが気にならないまま、あるいは、痛くないのに痛いと言われて悪くないことを悪いと思われることが気になって、悪うらあないにと、相手より自分の正しさを選び歩むなら、その歩みは愛に従っているのではないと言われる。十字架で、その痛みの何たるかをご存じの神様が言われるのです。

心を痛めることなど日常茶飯事だと、ともすると思ってしまう、痛み多き生活が私たちの現実だというのも、確かだと思います。その悲しい現実を、けれど臭い物に蓋をするように、頑張れば痛みも忘れて生きていけると、悲しみに蓋をして、あなたも頑張れと蓋をしてしまうのが、兄弟姉妹を滅ぼしかねない、悲しい歩みだとも言えるでしょう。

心を痛めるという言葉は、深く悲しんでいるとも訳される言葉です。キリストご自身、深く悲しまれたので、その兄弟の悲しみが、その姉妹の痛みが、わかるのです。その深い悲しみの中で、人が特に兄弟姉妹に求めるのは何か。愛ではないかということは、きっと私たち自身、深い悲しみや痛みを経験した時に求めた、愛の真実だと思います。痛む時、愛して欲しかった。もし同意してくれなくても、わかってほしかった。人にしてもらいたいことを人にもしなさいと、愛を教えられた神様が、その私たちのために十字架で、痛みを負って下さったのです。あなたのほうが大事だと。私たちが自分では癒せない深い悲しみを、自らの痛みとして負われ、死なれて、主が私たちの救いとなって下さった。

その主イエスによって私たちが知っているのは、単に汚れたものなどないということだけではない。全ての汚れを代わりに負われた主の愛に従って、私たちも互いに相手の重荷を負い合って、痛みを負い合って、命の祝福に歩もうと神様から招かれている幸い。キリストに背負われ、もう私たちは神の国の祝福に歩み始めている、その福音を、私たちは、キリストの愛によって知っている。確信しているのです。

頑張ることも、無論、それ自体で汚れたものではない。誰かのための頑張りを祝福して下さる神様のもとで、頑張れる恵みを与えられた人は感謝して頑張ればよい。頑張れないなら、その悲しみを知って下さる、十字架の神様の慰めに、ありがとうございますと、感謝の祈りを捧げて歩めばよい。頑張りから自由に、縛られないで感謝して歩める人生が、どれほど神様の愛を証しし、世界の祝福となるかは、きっと世界が既に知っています。だから求めるのです。自分の正しさを十字架に捧げて、あなたのほうが大切だと愛する祝福を、主の名によって祈るのです。