ローマの信徒への手紙14章13-15節、詩編133篇「つまずかせん愛の判決」

22/9/4主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙14章13-15節、詩編133篇

「つまずかせん愛の判決」

「キリストはその兄弟のため、姉妹のために死んで下さったのです」「従って」と今朝の御言葉を読み直すとわかりよいでしょう。

従って。だからと言ったほうが私たちの生活の言葉でしょうか。何でこうするが?○○だからと。だから、という理由で人は別々の生き方をする。その生き方の理由は、私たちにとってはこうでしょうと御言葉は説得を重ねてきました。8節3行目終わりの言葉で言えば「わたしたちは主のもの」だから。人が永遠に神の家族となるために、主が、全てを背負って死んで下さったから。永遠の御子が兄弟となって下さったほど愛されているから。そこまで神様が愛し求めて下さっている、だから!その兄弟姉妹を、互いに裁くことは、もうしない。私たちはキリストの命がけの家族だから。

だから互いに裁かない、で終わらず「むしろ」と続くのがこの御言葉の急所です。そして改めて繰返し明確にされる神様の御心です。それは、キリストが十字架で示された愛に生きること。何故か。その愛によってキリストを、十字架の神様の救いを世に証しするのが御心だからです。教会の兄弟姉妹の愛に偽善があってはならない(12:9)。主の愛なしで、どれほど正しい信仰理解を持ち、どんなに正しい教会生活を送っても、主の愛なき正しい生活は、人をつまずかせて滅ぼしかねない。何故ならそれはキリストを証言しない、別の何かを証言する生活だからです。

何でそう生きるが?と問われて、私の主が愛だからと答える生活は、単に裁かない生活ではない。うちはうち、よそはよそと。それは裁いて妬んで後で面倒にならんための、楽に生きるための知恵ではあっても、愛ではありません。何で?と思う相手を見て、いかん、裁いたらいかんと目をそらして、裁かず、いらんことは言わんけど、もし目をそらした先で、自分の正しさだけ見て送る信仰生活なら、むしろその人を見て、この人のためにキリストが死んで下さったから、だから!と始まる主の愛に従う歩みとは違うのです。それは、だから!が違うからです。

この人のため、神様が死んで下さった、だから!で始まる愛の道は、その兄弟姉妹の前に、つまずきの石を置かない。まして敢えて妨げる罠を置かない。こればあできるろう、頑張れと、妨げを置く人は、自分はできると信じさせる罠を置くのです。もし、そう意識していなくても。キリストが死なれる程の憐れみの招き以外の何かを、これが正しい信仰だと置かれても、それを受け入れられないから、つまずくのです。そのつまずく弱さを、キリストは受け入れて下さって、むしろ正しい信仰、例えば何を食べても信仰は汚れないという信仰を持つ兄弟姉妹に、その弱さを受け入れなさい、わたしが死ぬほど愛しているこの人の心が痛み悲しんで、わたしから、わたしの体である教会から離れて、つまずいてしまうことがないように、愛して欲しいと言われる。むしろ、つまずきになるものを置かないと「決心しなさい」と言われるのです。

決心する。判断を下すという言葉です。判決を下すでもある。「裁く」と訳されたのと同じ言葉です。罪だと判断を下すのが、裁くです。この人がしたのは何かと理性が判断して、罪だと判決を下す。そうした判断を下す私たちの理性を、言わばキリストは、わたしの理性に従いなさいと新しくされるのです(12:2)。この人がしたのは何かと理性が判断し、これは主がこの人を死ぬほど愛され背負われた罪ですと、十字架の愛のもとで判決を下して、だから!私はこの兄弟この姉妹の前につまずきとなるものを置きませんと、愛の判決を自らに下すのです。愛すると。

自分を守ろうと働く理性、だって、自分の信仰のほうが正しいと自分の正しさを守るために、だってと働いてしまう理性は、だって、そんな私たちのために死んでくださったキリストの救いによって、古くなってしまった理性だから、この十字架の神様の、憐れみの義しさを信じて、キリストを信じて、わたしに従いなさいと招かれるキリストに、はいとお委ねして、新しくされる他ない理性なのだから、そのキリストの愛のご支配のもとで、私たちは、愛の判決を下して歩むのです。兄弟姉妹のつまずきになるものは置かないと。

例えば、いつも喜んでいないとキリスト者として相応しくないのではないか、そして今、喜べない自分を相応しくないと思いつつ、それでも頑張って礼拝に来た兄弟姉妹に、もっと喜びやと、自分が喜べる喜びを押し付けるように前に置くなら、その喜びがつまずきになることはあるでしょう。むしろ「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(12:15)と、御言葉は、どんな弱さも罪さえも引き受けて、一緒に泣いて下さるキリストが私たちの主でいてくださる喜びを語ったのです。喜べない時には泣いてもよい。わたしはそのあなたの味方だと、十字架の主が共にいて下さるから、きっといつか喜べるという希望のもとで泣ける。その兄弟姉妹の主が、私たちの主で良かったと、主を信じ、主の時を一緒に待てばよい。復活の主が、その光の中に共に立たせて下さるからです。