ローマの信徒への手紙14章9-12節、イザヤ書45章22-25節「主が愛する関係だから」

22/8/7主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙14章9-12節、イザヤ書45章22-25節

「主が愛する関係だから」

神様の裁きの座の前に、私たちは皆、立つことになる。その時に誰か一人でも、私は胸を張って神様の前に立つと思う人がおるでしょうか。皆さんはその時、自分がどのように立つと想像するでしょう。イメージトレーニングにも似ていますが、自分のゴールを具体的にイメージする人は、自分の今を具体的に生きることができる。それは真実です。聖書の告げる真実でもある。

では、全ての人のゴール、全ての人が裁かれる、神様の裁きの座で、私たちはどのようになると、主は言われるのか。このようにです。「主は言われる。わたしは生きている。全ての膝はわたしの前にかがみ全ての舌は神をほめたたえる」。これが、神様の裁きの座に立つ私たち皆がこうなるという終わりの日の幻です。裁かれゆうのに、ほめたたえる?まさか、追い詰められた人間がハイルヒトラーとあがめるようにでは、ありえません。相手は神様です。場所は永遠の裁きの座で、復活させられた自分が何で今、ここにいるのか、わかった上で、そんな漫画みたいな演技を誰が本気ですると考えるでしょうか。あるいは生きていた時にこそ漫画みたいに考えていた主イエス・キリストが、目の前で、わたしは生きている、全ての人の償いのために死んだわたしは、見よ、生きていると、目の前に、しかも人として立っておられる。特に福音を信じた私たち、また福音を聴いた者たちは、そこで決定的に知るのです。本当に神様は人となられたのだと。本当に神様は、罪人を償うために、人間になられて、全ての人間の代表、主となられて死んで下さった。主は、本当に私たちの主となられるために死んで、いま生きて下さっている、人となられた神様なのだと、主の前にひれ伏して、ほめたたえる。何故か。その主が私たちにわたしの兄弟姉妹よと、人として、私たちの兄弟となられた主として呼びかけて下さっている。それがどれだけ本気の神様の愛の義しさであり救いであるかを、裁きの座の前で震えながら知るからです。もし、今は自分のことになってなくても、その時には、ひれ伏し、ほめたたえるほど、自分の事実として知るからです。

でも本当は既に、その命がけの主の事実が、私たちの事実なのです。どれだけ事実か。まさにその事実ゆえ、何故あなたはあなたの兄弟姉妹を侮るのかと裁かれるほどにです。

10節の直訳は「なのに何故あなたはあなたの兄弟を裁くのか。また、何故あなたはあなたの兄弟を侮るのか」。「あなたの兄弟を」と繰返して強調します。もし、聖書が情報や知識なら、もっと短くして、何で自分の兄弟を裁き侮るのか、これで足りる。でも御言葉のゴールは、わかることでなく、これを神様の言葉として聴く私たちが、はいと説得され、変わることです。わかることは主のゴールじゃない。わかるとしても、主が「あなたの兄弟」と呼ぶ時の気持ちが、自分のこととしてわかる。そしたら兄弟姉妹への態度も、主の御前で、はい、と変わるのです。

私は洗礼を受けた後、これからは全ての関係を、神様との三角関係で考えなさいと教わりました。私は誰か。主のものと、主との関係で考える。同じく主のものとされた全ての人は、私の兄弟姉妹と。単に教会でそう呼ぶからというのでなく、イエス様が、この人にも、私にも兄弟になって下さったから、あるいは、あの人は自分の兄弟姉妹とは思えないと裁き侮っても、主が!その人の兄弟になって下さったから、あなたの兄弟、あなたの姉妹だと言われるのです。だから、はいと主との関係で考え、主との三角関係で愛する。自分が根拠の愛や関係でやると、気分に振り回されるから、その人との間に主が常におられる関係を、大切に生きなさいと教わった。本当にそうだと常々思わされます。

近未来スパイ映画風に言えば、私たちの目に映った人に、赤い矢印がついて、敵!という文字が点滅するような関係は、兄弟姉妹でも起こりえます。昨日までは味方という文字が表示されてたのに、何らかのことで敵!に変わるような、自分にとっての関係で、兄弟姉妹をも考えて、裁いてかまんという表示や、侮ってよいという表示で、その人を見て、裁き、侮ってしまう。でも、もしイエス様の目に映る表示を、私たちが見ることができたら、兄弟!姉妹!兄弟!死ぬほど愛している!死ぬほど愛している!と表示されている。全ての人に愛している!と。全ての人を背負って、主は死なれ、今、主として向き合っておられるのです。愛している。あなたも、あなたの兄弟を、あなたの姉妹を愛しなさい。わたしは主、あなたとあなたの兄弟姉妹を死ぬほど愛している、あなたたちの兄弟だからと。主との関係から考える。まだイエス様に結ばれてない、主が死ぬほど愛しておられるその人も、主との関係から考える。マザーテレサが、この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのだ(マタイ25:40)と言われるイエス様を、道端で死にゆく人々に見たように。どの人にも、その主となられたイエス様を見て、主のお気持ちを考え、はいと、その人を大切にする。ゴールへの道はそこにあります。