ローマの信徒への手紙14章5-9節、詩編100篇「主との関係から考える」

22/7/31主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙14章5-9節、詩編100篇

「主との関係から考える」

何のために自分が生きているかは、存外、自分では見えんものです。それで、あの人はあんなことのために生きてと裁くのかもしれません。そして自分は死ぬ前に、何で私はこんなことのために生きてきたのかと振り返らないためには、では、今どう生きればよいのか。御言葉が示すのはこうです。私はこれを、誰のためにやっているのかと、その生き方が向かう先の目的、ゴールを明らかにする。すると、これはやめよう、あるいはやろうと、色んな判断ができるようになる。

では誰のためか。私は自分のしたいことを、この世がすごい煽る(笑)ように、自分のためにやるのか。例えば、礼拝に来ることも。それとも御言葉が説得するように「主のために」あるいは「主に向けて」礼拝を休むと判断するのか。何故ならその善し悪しは、その判断のゴールが、自分に向いているか、主に向いているかで、判断されるからです。

何故か。そこが今朝の御言葉の急所です。直訳で7節8節の冒頭、そしてクライマックスとなる9節でも「何故なら~だから」という理由が繰返され、何故そうなのかが強調されます。先に答えを言うと、私たちが主のものだから!だから主に向けて生きるのです。

7,8,9節を直訳します。「何故なら、私たちの内の誰も、自分に向けて生きないから、また誰も自分に向けて死なんからです何故なら、もし生きるなら私たちは主に向けて生きるから、もし死ぬなら私たちは主に向けて死ぬからです。だからもし生きるにしても、もし死ぬにしても、私たちは主のものなのです。何故ならこのためにキリストは死なれたから、そして生きておられるから、つまり死んだ人と生きている人の、主としてご支配なさるためにだから。」だから主のために生きる。

短くまとめると「何故なら私たちは主のものだから」これを理由に、一切を判断するのです。礼拝に行く、何故なら、私は主のものだから。今日は礼拝を休む、何故なら、私は主のものだから。イエス様、あなたが私の主でいて下さって、ありがとうございますと、主のために行い、また行わないと判断すればよい。

ただし、単に感謝をしておったら、それが主のために、ではないことは、主ご自身、ファリサイ派の祈りの譬えで、こう教えておられます。当時の宗教的エリート、ファリサイ派の人が、こう祈った。神様、私は断食もして、十一献金もして、外の人たちみたいな不正な者、姦淫する者でなく、ローマ帝国の手先として税を集める、この徴税人のようでもないことを感謝します!ところが、その徴税人は遠く離れて立ち、下を向いて、胸を打ちながら言った。神様、罪人の私を憐れんでください。イエス様は言われた。神様が、あなたは義しいと受け入れられたのは、この人だ。正しいファリサイ派の人ではない(ルカ18:9-14)。

おわかりだと思います。誰のため何ゆえに感謝するかなのです。感謝することが正しいからとか自己肯定のため、自分のためではない。自分のために信じる信仰でも、ない。主のために感謝するとは、十字架の主の御心が、私たちを救う憐れみと赦しと愛であることを、謙って、はいと感謝すること。そしてこの憐れみに生きられるようにと、主を与えて下さって、ありがとうございます、主が私のゴールですと、主に向けて生きることです。何故なら、その私たちのため、その私たちに向けて、主は十字架の主となられたからです。

主の御心は、私たちが主のものとして生きることです。そのために!主となられたイエス様の命がけの事実に、はいと身を委ね、主のものとされた事実!に生きる時、御心はなっています。何故なら、何故なら、何故なら、私たちは主のものだから。それ以外の誰かとして生きも死にもせんのです。いや、できん。猫が犬死にできんように、主のものは、主のものとして以外には死ぬことも生きることもない。何故なら、そのためにキリストが死なれ、主としてご支配なさるために生きておられる主の事実の中で!私たちは主のものだからです。人間が思う事実や確信の中ででは、ありません。主が、あなたと私の主として生きておられるから、その福音を、主が教会によって宣教されるのです。信じなさい、わたしは主、あなたの神、あなたを永遠の滅びから導き出した神であるから、信頼して、わたしに、はいとついてきなさいと、十字架の主が、その大きな背中に、主として私たちを背負われるのです。

その恵みの事実に立てばよい。福音に、はいと立てばよい。既に主のご支配は始まっているからです。「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15)。神様のご支配が十字架と復活のキリストによって既にスタートしているからです。何故なら「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるため」、全ての人を、その福音のご支配へと招き、導き、人が神様と共に永遠に生きるためだから。

だから主のために、主のものとして感謝して歩めるのです。