ローマの信徒への手紙14章5-9節、詩編115篇1節「自分のため?主のため」

22/7/24主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙14章5-9節、詩編115篇1節

「自分のため?主のため」

「主となられるため」、私たちの救いの主となられるため、キリストは代わりに死んで復活して生きておられます。人がまるで羊飼いのいない羊のように、どんなに迷って判断を誤り、互いに裁き合うような羊たちでさえあったとしても。その羊たちの主として、導き、見捨てないで、背負って完全に救うため、私たちの救い主となられるために!私たちのために十字架で死なれたキリストが生きておられる!だから感謝して自分の判断も自分自身も、主よ、お導き下さいとお委ねできるのです。

その信頼の歩みを「確信」と言われると、逆に自分は大丈夫やおか?確信ないけどと、心が主に向かうより自分の確信の有無に気を取られ、あるいは、確信します!と強がったこと、ないでしょうか。

その5節後半を直訳しますと「各自、自分自身の理性において十分に説得されなさい」。おそらく確信と訳したのは、その確信は、自分の理性が十分に説得されて、ああ確かに!と与えられて持つのが確信だと理解したのだと思います。確信を持つという言い方もある。だったら落とすこともある。あれ?と確信が無くなること、ないですか。自分の意志で生み出すものじゃない。案外、理性の外から無意識に知らん間に持っている判断も多いのです。何でも確信するわけじゃない。また、して良いわけでもない。なのに、いやこれが正しい!そっちが間違えていると、自分のために、人を裁いてしまうので「各自、自分自身の理性において十分に説得されなさい」。中途半端に自分の正しさなんか確信せず、自分自身の理性において十分に説得されなさい。そしたら、自分の理性が、何によって説得され納得して、はいと主のために生きようと思うのか、あるいはまるで自動的に裁いて、主のために生き損ねてしまうのかを、十字架の主の前で、わきまえ直せるからです。

私が体験した信仰の判断の違いに、ある人は神様、イエス様と呼ぶ、ある人は神、イエスと呼ぶ違いがあります。私が信仰を受けた米国ではGod、Jesus。呼び捨て(笑)。でも日本語では、私は、様をつけるほうが納得できると判断しました。10年経ち、牧師になってすぐ説教塾という会で、私が説教で聖霊様と言うのに違和感を覚えたと、数名の牧師から言われました。そしたら講師の先生が、神様、イエス様と呼ぶのなら、聖霊様と呼ぶのが理に適っている。私は神、主イエスと呼ぶので聖霊と呼ぶが、呼び方の一貫性を重んじるのは良い。むしろどうして聖霊だけ呼び捨てることが多いか、考えてみたらよいと言われました。

「各自、自分自身の理性において、十分に説得されなさい」。他の人の理性、判断を疑うより先に、自分が何故こういう信仰の判断をしているのか、主の前で自分に問うてみる。だからかと。自分の理性において、しかも聖書に基づいて考え抜いて、信仰の先達たちから学び、それでも間違っている可能性もあるのです。あるいは十分ではない。中途半端な納得だけど、だからこうすると判断しているのが理性の実際でしょう。だからでしょう。理性は新しく刷新されなさいと既に語られたのです。1枚前にめくった12章2節を、どうぞお開き下さい。

むしろ以下を直訳します「むしろ理性の刷新によって、あなたがたは形を変えられなさい。何が神様の求めか、つまり善い、喜ばしい、完全なゴールかをわきまえるために」。

神様の求め、御心は、信仰の判断が異なる兄弟姉妹を受け入れることで、キリストの十字架による、救いの御心の何たるかが、教会によって世に証しされることです。裁くことが御心ではない。だからこそ御子を代わりに裁かれた神様が、どれほど私たちを憐れみ、受け入れて下さる神様なのか、驚くばかりの恵みの神様であるのか!自分の理性において十分に説得されよと求められるのです。主は、こんな私のために死んで下さったと、自分に向いて歪んだ理性が刷新され、十字架の恵みの主に十分に説得されることで、私の主よ、そのあなたのために、私は判断の異なる兄弟姉妹を受け入れますと、十字架の主に、はいと従うのです。

そして主から、御言葉から十分に説得されて、自分の理性において、これがあなたの喜ばれる、あなたの求めだと判断します、イエス様の名によって、主のために行います、と感謝して歩む。その信頼の判断を、主は、それでよいと受け入れて下さる。それが「主のために」食べたり食べなかったり、高知では飲んだり(笑)という信仰の判断です。主のためですから、もしそれを変更しなさいと主から示されたら、いつでも刷新する準備があります、主よ、お語りください、僕は聴いております(サムエル上3:9)と言える。そこにこだわればよいのです。そもそも神様が死んで下さらなかったら、私は赦されない罪人だと、理性が刷新されたから洗礼を受けたのです。私は主が必要です、私のために死んで下さってありがとうございますと感謝して、死んで下さった主、いや、生きておられる主と歩み始めた。その歩みを、主から死ぬほど愛されている羊たちの歩みを、十字架の主が、導き続けて下さるのです。