ローマの信徒への手紙14章1-4節、ヨブ記42章1-6節「人を自由にする主の力」

22/7/17主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙14章1-4節、ヨブ記42章1-6節

「人を自由にする主の力」

十字架の主が、私たちを他の誰でもない、主ご自身に、はいと信頼してお従いする信仰に立たせて下さる。主は、それがおできになるから、その主を信頼して、つい批判したくなる兄弟姉妹を、受け入れなさいと言われます。つい批判する私たちをも主は、はいと主を信頼する信仰に立たせることがおできになるからです。

一つの教会の中でも、しばらくいると、おや、細かい信仰のこだわりが存外違うとわかります。また他の教会を知る機会があると、あら随分違うことをしゆうと思われるでしょう。教会は右向け右の軍隊方式ではないので、それでかまんと言われる主に、はいと向くので、細かい部分では結構違うのです。感染対策で礼拝をどうするか、讃美歌や聖餐式をどうするか、様々です。そんな心配して信仰がないのかと見下すことはしない。それで感染者が出ても、ほらと裁かず、むしろ、主よ!助けて下さいと執り成し祈る。十字架の主が、そうなさるからです。

信仰の名で裁かれやすい主の召し使い、あるいは僕に牧師夫人がいます。めちゃ強い牧師夫人もいますが(笑)、比べ始めると、その人の主が見えなくなる。よくわかる話ではないでしょうか。ところがうちの牧師夫人は、牧師夫人がおらん教会で育ったので、牧師の妻になるって何をするの?と結婚前、私に尋ねました。妻には分かりやすいかと思って、教会の玄関マットみたいに、人知れず皆にお仕えして、イエス様みたいに踏まれて泣くことがあっても、主に愛されて主に仕える尊い召しだと思うと、私の知っている牧師夫人たちを思いつつ答えました。わかったと言って妻は、妻の主であられるイエス様に、はいと従ってきました。やがて、幼稚園のママ友たちと別の教会の子供会に行った時、ママ友が牧師夫人を見て、牧師夫人って大事やねと感心して、あれ?と妻に尋ねた。愛さんの教会って、牧師夫人おるが?(笑)。教会学校に何回か来てたんですが(笑)、でも人が教会で見るべき主はイエス様ですから、主の陰に隠れて、皆が主に目を注ぎ、耳を傾けるために、牧師夫人も牧師も信徒も、皆が十字架の主に、はいとお仕えすればよい。敢えて身を隠す必要もない。自分のこだわりにこだわらなくてよい。主から与えられた賜物に応じて、はいと信頼し、お仕えすればよいのです。

比べないという話をしましたが、受け入れることは、相手が何をしていようと、自己責任にして無視することではありません。うちはうち、よそはよそではない。関わらないのではなく、受け入れるのは、愛の内に受け入れるのですから、愛するのです。たとえ山を動かすほどの信仰があっても、愛がなければ無に等しい。もし人の信仰のあり方で本当に動いて変わらないかんことがあっても、それは受け入れる中で、言葉でなんぼ言うても動かん山を、主が!動かされ変えられるからです。

受け入れる愛は、無ではない。もし、何も動かないように見えても。なかなか主が動かされないように見えても。では無ではないなら、何があるのか。受け入れるところには、その自分の立場のわきまえがあるのです。自分が本当は誰であるのか。そして、つい批判したくなる、その相手が本当は誰であるのかの、わきまえが、受け入れる信仰にはある。その人には、主がおられ、主は生きておられ、その人の主として、私に問われるのです。あなたは誰かと。そして無ではない信仰は答えます。私はあなたの僕です、我が主、我が神よと。その時、改めて知るのです。私は、この兄弟姉妹の主ではないし、この兄弟姉妹は、私の言うことを聴くべき私の召し使いでは決してない。この兄弟姉妹は、聖なる永遠の御子なる主が、ご自身の血潮を流して買い取られた主の聖なる僕です、あなたの宝ですと、十字架の主の前にわきまえ、受け入れる。その時、自分という山は動いているのです。

私たちのことは、主が死ぬほどご存じです。本当に神様が死ぬ必要が私たちにはあるから。だからこそ死なれた主がご存じです。あなたたちは、わたしが命をかけて愛する者だと。あなたたちの信仰、わたしとの信頼関係など、どうじゃちかまんと放っておけるだろうかと。わたしがあなたがた一人一人と関わる、わたしが主、あなたの神だと言われるのです。そして私たちが信仰に立つことが、できるようにされます。信頼に立つことを誰よりも願っておられるからです。十字架の主です。新聞寝転んで読みながら、口で、あれせえこれせえと命じるだけで動かん、極道で妻に怒られる私みたいな主人ではない。心底そう思います。人が永遠の滅びに倒れ落ちることがないように、私たちの汚い思いも文句も思い上がった裁きも一切を、父よ赦してくださいと代わりに引き受け、身をもって私たちを受け入れられた主が求められるのです。あなたにはわたしをおいて他に主があってはならない。誰かの主になってもならない。わたしが主だから、あなたは、その人を受け入れなさいと十字架の主が言われるのです。主の僕は、その主との信頼関係の中に立つから。主は、その人を、立たせることがおできになるからです。