ローマの信徒への手紙13章11-14節、エステル記4章13-17節「パジャマで説教する夢」

22/6/26主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙13章11-14節、エステル記4章13-17節

「パジャマで説教する夢」

変な説教題にしましたが、一回パジャマで説教したいと夢見ゆうのではありません。ご安心ください(笑)。皆さんはそういう夢見たことないでしょうか。夢の中、教室や職場でパジャマを着ていて、え?何で?と恥ずかしい夢。割と見ます。場違いと言うより、御言葉は、時が違う、今がどんな時か、あなたがたは知っているのだからと訴えかけます。

いつパジャマを着ちゅうか。休日は昼でも着ちゅうかもしれません。何にも縛られない時、自分の好きになる、プライベートな時に着ちゅうから、人前で着ちゅう夢を見ると恥ずかしいのでしょう。自分の時を、楽に楽しむ時間に着ちゅうのがパジャマであり、お酒も然り。仕事中に飲んだら怒られますが、アフターなら文句は言われない。また結婚中に他の人と寝たら怒られても、ビフォーなら文句は言われないのが、この世の、自分の時だから楽しんだら良いという、皆やっているからという夜の姿、あるいは闇の行い、闇の業と主が言われる、罪の実情です。

13節で、だから日中を歩むように「品位をもって」の直訳は「良い姿勢で」。生きる姿勢が問われるのです。12章2節で「この世に倣うな」この世と同じ姿になるなと言われたように、単に上品にということではない。人前での話より先に、神様の御前で、その罪を負われたキリストの御前で、あなたは自分がどんな姿であるかを知っているはずだから、だから十字架でその罪を、ご自分が犠牲になってでも赦して、救われよと手を伸ばされたキリストの御前で、私たちは、はいと頭を下げて自分をお委ねしたその姿勢を知っているから、なら、今がどんな時かも、あなたは知っている。生きる姿勢を変えようと言われるのです。

どんな時か。今は、どんな時か。パジャマでおっても、誰からも言われん時か。確かに世は言わない、むしろ楽にしいや、同じ姿になりや、皆やりゆうやかと言う今は夜か。そう。世は言い続けています。夜には違いないのです。それは間違えてはならんのです。今は暗い時間です。闇に襲われる危険な時間、武具が必要な時間です。が、だからこそでもあるでしょう。人々を守るため、救い出すため、暗い時間から、誰かのために起きて働いている人がいる時間でもある。その人々も時を知っています。今は起こす時間だと。愛する者たちを死の床から起こすため、その死を身代わりに死なれた、いや復活された主に目覚めてお仕えする時だと。何故なら「今や私たちが信仰に入った頃よりも救いが近づいているから」です。救い主の御声に、はいと、身を起こす時だからです。寝すぎて体が固うなったら、すぐには起きれんでも、それでも忍耐して愛して起こして下さるイエス様に、私の主よ!立ち上がらせて下さいと起きる、救いの時です。自分のためだけの救いではまさかない、人々の救いのための時は、常に!今もイエス様と共にあって、そのイエス様が常に私たちと共におられて、ついて来なさいと言われる救いの時です。

12節「日は近づいた」。これはイエス様が「は満ち、神の国、神様の救いのご支配は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われたのと同じ言葉です。イエス様が来られて、既に救いのご支配は始まった。まだ完全には来てないから、闇に眼が閉じそうになる。今は死ぬ前にプライベートを生きる自分の時やないが?夜でもえいやかとさえ思うのは、イエス様によって始まった神の国が、十字架で全ての罪を裁くことによって来る救い裁きなしでは来ない救いが、その最後の裁きが、未だ来てないからです。なら来てほしいか。来てほしくないのではないか。知っているから。その日がいつ来るかは、子も知らず、父だけがご存じである(マルコ13:32)、だから、目を覚ましていなさいと主が言われた、の時が、どんな時かは、あなたがたは「知っているから」と主は言われます。いつ来るのかは知らなくても、どんな時かは知っている。知っている「見ている」という言葉です。イメージできると言い換えたら、どういうことかも見やすいでしょうか。

今の生き方がどこに行くか、本当は知っている。見えるのです。世が、今は自分の時!と倣わせる生き方は朽ちる。でもその生き方を生きた私たち自身は、朽ちても神様の前に目が覚めて、その行いに応じて裁きを受けるのです。もし、パジャマを着て立っていたら、パジャマが燃えて裁かれる。その日のことを、コリントの手紙一3章はこう言います。でも「その人は火の中をくぐり抜けて来た者のように救われる」。何故か。その人の救い主キリストが、その人を覆うからです。その人の代わりに十字架で裁かれ焼け死んで、あなた自身は救われよと、御子に背負われ救われるのです。その救いが近づいたのを世は見ていない。見ることができんのです。でも、あなたはこの救いが既に始まったのを知っているだろうと主は言われます。あなたは今がどんな時かを知っているから、十字架の裁きによる確実な救いは始まったけど、その最後の裁きは未だ迎えてないから、だから!さあ起きて生きる姿勢を変え、皆を起こしに行こう、今がその時だからと、私たちの光の主が招かれるのです。