ローマの信徒への手紙13章4-7節、イザヤ書10章15節「主を畏れ敬う良心から」

22/5/15復活節第五主日礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙13章4-7節、イザヤ書10章15節

「主を畏れ敬う良心から」

十字架の救いの神様が、税金にまで関わっておられるとは、何とそのご支配の大きく、具体的であることでしょう。こうした日常の、不平が出そうなほど具体的な場面で、主を礼拝して、はいとお従いする。その礼拝の態度に、十字架の正義の力が証しされるからです。

7節の貢と税との違いを調べていて、日本では国税と地方税の違いがあると知りました。例えば所得税や消費税は国に納める税金で、住民税や自動車税は地方に納める税金だと。なら7節の御言葉は、国にも地方にも、神様への良心を通して税金を納めよとも言えます。そういう良心から出る態度を、人は案外よく見ているものです。

当時から税金を納めることに不平を持つ人が、どうも教会にもおったことが覗えます。当時ならカエサル、今なら何々首相の名前を出して、ともすると礼拝の後で不平話に花を咲かせておったのかもしれません。

しかし今朝の御言葉が同じ言葉を繰返して強調するのは、そうした税を納める先の権威者は「神様に仕える者」であるから、特にその神様を信頼して救われた私たちは、その神の奉仕者に「従うべき」だ、直訳は「下に身を置く必要がある」。それは彼らが神様に仕える奉仕者だからだと、繰返し強調するのです。先週の続きで言うと、彼らは神様が地上に権威者を立てられた目的に、それを知らずとも仕えているからです。

上段3行目「神に仕える者として…怒りをもって報いる」の「報いる」は12章19節で「復讐」は神様がなさることと訳された「義を実現する」という言葉です。つまり神様は、悪を裁かれ正義の報いを与えられる時に、地上の権威を用いられる。罪の赦しを与えられる時に、教会を用いられるように。なら、主の体として選ばれた私たちもその目的から外れやすいように、権威者が目的から逸脱するのは、目的を知らん分、罪は軽いかもしれません。聖書が「罪を犯す」ことを表すのに「目的を外す」という言葉を用いた意味は深いと思います。主の十字架の目的から思いが離れると、下に身を置かん態度が出て、悪を行い、罪を犯すのです。

でも皆そうやかと思いたくなるのも具体的な罪の現実でしょう。故に先週も立ち戻りました、何故、どう従うのかの出発点に再び戻ります。12章1節「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ」直訳は「理に適った礼拝です。この世に倣ってはならない。むしろ思いの刷新により、あなたがたは形を変えられなさい」。先の、皆そうやかと思いたくなるのも理には適っているのです。この世の形が、そうだからです。その形を、思いの刷新によって、これじゃいかん、目的に従いたいですと、変えて頂くためにも自らを主に献げる礼拝を捧げなさい。そうしたら神様のお気持ちを、献身した体で知るようになる。怒り悲しみや喜びと共に、十字架の神様のお気持ちが身に染みてわかるから、そうしたら積極的な「良心のためにも」、はいと神様の目的に従えるのです。

逆に、神様を良心で知らんから、目的から逸脱するのでしょう。先に読みました旧約は、北イスラエルを倒したアッシリア帝国は、神様が義の裁きの目的のため選んだ斧だったのに、アッシリアは自分を誇ったと戒める預言です。新約でも例えばイスカリオテのユダが、選ばれたのに主を裏切り、それでも、しかも最重要の、主が十字架で死なれるための役割に用いられたのは、人間が選ぶ悪も、人間が神様に対してなしうる最悪の罪さえ、神様は、罪人の救いのために用いることがおできになるという、全能の神様の救いの証しです。死ぬことさえおできになる全能です。その神様の救いの目的がなるために、自分の体を神様に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げる私たちを、どうして神様が用いられないということがあるでしょう。神様に逆らって罪を犯す人間を、それでもどうしようもないほど愛されて死なれた神様の、人の思いを遥かに凌駕する十字架の愛の御心を、ならば、はいと信頼し、献げて良いのです。自分の態度も体も、丸ごとを。神様が聖めて用いて下さいます。

今朝の6節で「神に仕える者」と三度目に繰返されて、権威者たちは人が税を納入することに励んでいる「神に仕える者」だと訳された言葉は、実は先の二つと違い「神様の礼拝奉仕者」であると更に強調された言葉です。税を納入させることにおいて、励んで神様に礼拝奉仕するという言い方は、単に権威が用いられという受け身の奉仕を超え、幾分か滑稽にも見えます。励んで積極的に、なのに知らん神様を、用いられて礼拝するのです。いや、むしろ神様ご自身が、そう励むようにと彼らを立てられ、単に地上に正義を保つためでなく、天にまします我らの父の名が、御子をくださった父の御名が、呼ばれず知られずともあがめられるための礼拝奉仕者とされているなら、その父を、我らの父よと呼んで私たちが励む、神様の救いの御心がなるための献身が、どれほど積極的な礼拝奉仕として神様に喜ばれているか。これこそ憐れみの理に適った礼拝です。だから税も権威への態度も主への礼拝として献げるのです。