ローマの信徒への手紙12章17-21節、箴言25章21-22節「報復しなくてすむ正義」

22/4/24復活節第二主日礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙12章17-21節、箴言25章21-22節

「報復しなくてすむ正義」

「悪に悪を返さず」。まるで店に返品するように、しかもクレイマーのように、悪を返さない。それは人への礼儀でもあるでしょう。愛は礼を失せず(コリント一13:5)。無論、相手は礼儀のない悪を行いましたが、それは、相手を愛さない理由にはならんのです。隣人を愛する理由は、神様がその人をも愛され、その人を愛する私たちを喜ばれるからです。それが終わりの裁きの時、よくやったと主から言われる正義、十字架で示された神様の愛の正義だからです。

「復讐」と訳された言葉は本来「正義の実現、成就」という言葉です。人は正義の実現と思って復讐するのでしょう。でも、自分の正義でしかない復讐が正義を実現することはありません。復讐は、自分が!という欲望に、悪に負けている復讐だからです。

無論、被害者を無視して黙って、被害者がやられっぱなしで加害者が何の報いも受けんのは正義ではない。まして神様の正義ではない。神様は、だから裁きを行われます。正義とは人が自分の行いに相応しい報いを受けることでもある。聖書が証しする神様は、報いの神様です。

報いが十字架の大前提であることを忘れたら、何で十字架が救いなのか、何で神様が死なねばならなかったのかもわかりません。単に大きな犠牲の愛を示して下さいましたじゃない。何の犠牲となられたかです。私たちが行った悪の故に私たちが受ける私たちへの正義の報いを、神様は、わたしが代わりに受けたから、あなたは赦されると死なれた。その十字架に生かされる者は、神様が報いの神様であることを、自分のこととして知るのです。それが今朝の御言葉の大前提です。

自分は報いと関係ないが、相手には報いを求めるという勘違いほど、人にも自分にも害を与える勘違いはないでしょう。それは十字架を誤解させ、十字架は私の罪の報いのためだと見えなくさせるからです。

人が自分の悪に対して本来受けるべき「正義の報い」を、日本語では「報復」「戻って来る報い」と言います。どこに戻るか。悪を投げた自分のところにです。それが本来の、そして正義の神様のなさる報復です。機械的に戻る因果応報ではない。赦せん!と怒る人間が投げつけるように悪を返すのでもない。でも戻る。必ず本人のところに戻る。神様が、その悪を行った本人のところに、その報いを戻されるからです。

だからです。「神の怒りに任せなさい」の直訳は「あの怒りに、神様の怒りに場所を与えなさい」です。キリストが、悪を返したい私たちに、どきなさい、そこはわたしの場所、あなたのじゃない、そこに立つ者は死なねばならないと「生きている者と死んだ者とを裁かれる」十字架の主として言われるからです。

正義の裁きを聖書は怒りと言い換えます。人は感情的に操作されやすいため、事実によって正義の判断を下すためには感情を抑えることも、加害者にも被害者にも公平な距離を置くためには必要でしょう。でも罪が犯されるとは、本来、互いに善を行うべき公平さが破られている関係なので、不公平を押し付けられた被害者に、卑怯なという怒りの感情が起こるのは自然なことです。怒りは正義が破られ、人の尊厳が踏みにじられ汚された、罪と悪に対する正義の感情であればこそ、聖書も神様の正義の裁きを「怒り」と言い換えるのです。

人から悪を受けた者が怒るのは自然なことです。けれど、その怒りの場所で、自分が憐れみなき裁き主になるのではなく、その怒りの場所で死ぬために人となられた神様に、私たちのために御子を憐れまないで、見捨てられた神様の正義の怒りに、あなたの怒りの場所を譲りなさい。あなたの正義を実現される神様の怒りを信頼し、あなたが神になってはならない。わたしが主、あなたの神だと、主は言われるからです。

例えば、人から何かされた怒りは、まるでビデオの巻き戻しみたいに何回も思い出させ復讐を求めさせますが、その思い出す場所に、主よ、あなたが来てくださいと招くのです。相手が悪い悪い悪いと怒り呪いを増幅させ悪を返す私の場所に来て助けて下さい、この場所を、あなたがご支配くださいと譲るのです。そこは聖なる十字架の場所だからです。

十字架の憐れみなき裁きを知る者に、キリストと結ばれている者に、主は、愛する者よ、あなたの場所は、わたしであって、裁きの場所ではない。わたしがあなたの正義だから、わたしを信頼し、わたしについて来なさいと言われるのです。そして、はいとついて行く先で、主が死ぬほど愛されている人に、水や食べ物や優しい言葉を分けるのです。悪を返す者でなく、自分の悪の報いを十字架で負われた者として、キリストに結ばれて負っている救いのくびきを、キリストの憐れみを、その人に少し味わってもらうのです。その人が受けるのは燃える炭火どころではない、憐れみのない永遠の報いの火で焼き尽くされてでも、あなたのために死んだ、わたしの燃える思いだと、きっとその人は知るようになると、主が約束されるからです。その約束を信じて、救い主の御業となるのです。