22/4/17イースター召天者記念礼拝説教@高知東教会
ローマの信徒への手紙12章14-16節、詩編16篇7-11節
「共に泣き共に喜ぶ復活」
喜ぶ人、泣く人、その喜び、悲しみの唯の一つも、神様は軽んじられません。その喜びや涙が貴いからとか正しいからではない。むしろ何でそんなことでと人に責められ理解されん喜びや涙であっても、神様は、でもそれは、わたしの愛するあなたの喜び、あなたの涙だからと、その全てを私たちと共に受け入れて下さいます。もし、その喜びや涙に本当に責められるべき罪があっても、その罪はわたしが責任を取るからと、共に喜び共に泣いて下さる。それが十字架で私たちの一切を受け入れ、全責任を取るために人となられた神様です。そして人の全責任を負って死なれた神様が、人として死から復活されたとは、その神様に負われた者たちもまた、赦しの喜びと復活に生きてよい、起きなさい、愛する者よと呼ばれているということ。それがキリストの復活です。
下の段落1行目で「交わりなさい」と訳された言葉は「引っ張られて身をかがめる」という言葉です。そうやって「低い人」と交わる。もとの言葉に「身分の」という言葉はありません。「低い者に引っ張られ手を引かれて身をかがめなさい」が直訳です。背の低い幼子に手を引かれ、大人が身を低くして、背中をかがめながら、どこ行くが?どこ行きたいが?と、その子の歩幅に合わせながら一緒に歩むように。あるいはそのまま背中を差し出して、その人をおぶって、よいしょっと身をかがめ、低い者と共に喜び、また共に泣きながら、共に進んで行くのです。
本当は人に高いも低いもありません。身長の高い低いはあれ、能力の高い低いさえあっても、その高い低いがその人でも、ましてその人の命でもない。なのに人はそんな作られた嘘の価値に、命を振り回されてしまう。低いと踏まれる世界だから高くなりたいのかもしれません。誰だって踏まれたくない。でも踏みたくだってないはずです。踏まれる痛みがわかるなら。なのに低いのは損やろと自分に思わせる生き方、人にも思わせる生き方で、もっと頑張れと上から自分にも人にも言う、まるで低いのが悪いように思わせる世界の支配に何で従ってしまうのか。そう思わせる高ぶりこそ愛の反対である罪、悪であるのに。
その悪を、神様は罪として裁かれます。罪に泣かされる者に我慢せえと黙らせる神様ではありません。そこに正義はないからです。そこには愛もありません。愛は、正義を曖昧にするのでなく、実現するのです。その正義の実現の仕方が、でも代わりに責任を負って赦してでも、共に生きるという十字架の愛の正義なのです。
本当はその愛の正しさを示すのが正義です。違うでしょうか。なのに自分は正しいと押し通す嘘の正義ばっかり大人に見せられて、自分までそんな大人になって。そんな正義ばかりの嘘の世界で、愛の正義らあ通用せんと思って生きるのが、罪に染まった賢い人間の世界であっても。そんな賢い人にはならないで下さい。大人になった私たちも本当はそんな賢さなど捨てたいのじゃないか。違うでしょうか。なのにその賢さを捨てたら、自分を棒に振るんじゃないかと恐れに支配されそうになっても、そこでこそ思い出して下さい。私たちのために人となられた天地の創り主が、他の誰のためでもない、私たちのためにご自分を棒に振って下さったことを。私たちが、まるで罪に頭を押さえつけられるように、自分のこと自分の気持ち自分の自分のと、本当は人間は神の形に、神様の愛の形に創られたのに、その愛の形を棒に振って低い生き方になっているのに、その私たちを赦し受け入れて、全ての罪の責任を引き受けた神様が、あなたは生きよ!愛されて生きよと死んで下さったことを。今は泣いていても、たとえ間違って喜んでいても、その日には永遠の笑顔で神様と共に喜び、ありがとうございますと喜んで泣けるように、神様が低く降られて背負って下さった、救いの十字架を忘れないで下さい。
この神様を信じる、キリストを信じるとは、崇高で高みにある救いを得るために上に登って行って信じるのではありません。十字架と復活の神様を信じるとは、私たちのために身を低くして人となられたキリストに、はいっとしゃがまれて、背中におぶってくださるキリストの背に、ありがとうございますと自分をお任せして、信頼するということです。かまん、自分で歩ける、歩き方ぐらい知っちゅうと賢い者にならずに、はい、とおぶってもらう愛と信頼関係を持つ温もりをこそ知って、神様に、その愛を、あなたをもっと知りたいですと、共に歩むことです。
この愛、神様と人と共に生きる人としての命は、皆にも知ってもらいたいと思いたくなる命です。だから神様が身を低くされた十字架の愛のもとで、共に喜び共に泣き、愛と命を分かち合いたくなる十字架のもとでは「互いに思いを一つにする」。つまり互いに同じことを思うのです。あなたは神様に愛されていると。神様は私たちと共に生きておられると。人が死んでも生きるため、人となられて死んで復活されたキリストに、私たちが一つに結ばれて永遠に生きるため、神様は生きておられると、キリストの命を思う。キリストの命の中に私たちの命もあるからです。