ローマの信徒への手紙12章14-16節、ゼカリヤ書9章9-10節「天国に一番近い十字架」

22/4/10棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙12章14-16節、ゼカリヤ書9章9-10節

「天国に一番近い十字架」

これはイエス様のお姿です。私たちの代わりに呪いを引き受けて死んで下さった、人となられた神様のお姿です。だからあなたも神の家族の祝福に生きよと呼ばれ、はいと歩む教会の姿でもあります。

受難週を迎える朝の礼拝で丁度この御言葉の巡りという主の摂理に、ありがたいなと改めて思います。神様がおられることを、わかりやすく感じさせて下さると言うか、こういう喜びをも一緒に喜ばれる神様が、十字架で私たちを赦し救われる神様なのです。

十字架につけられる週の日曜日、そんなこと知らん群衆は、イエス様こそが神様の約束された救い主の到来だと、都に凱旋する王様を迎えるように、道に棕櫚の枝を敷いて歌いました「主の名によって来られる方に祝福があるように」(マルコ11:9)。その中の何人が五日後の金曜に、まるで手のひらを反すように「十字架につけろ」と叫んだのか。律法は「木に架けられた者は呪われている」(ガラ3:13)と言います。祝福を受けるべき方が呪われて、迫害する者への呪いを、引き受けられたから言われるのです「迫害する者を祝福せよ。呪うな、祝福してくれ」と。

直訳は「祝福せよ」。祝福のギリシャ語は「良い言葉」。祝音が「良い知らせ」なのと同じです。だから最も純朴な祝福は、相手に良い言葉をかけること。そうでしょう。素敵なワンピやねと声かけるのと、何その服と笑うのと、どっちが祝福で呪いかは、多分すぐわかります。私たち、結構、人を呪っているのかもしれません。自分をも呪っていることがあるのではないでしょうか。

旧約のヨブ記で、どんな慰めの言葉も失うほどの災いに遭ったヨブが「私の生まれた日は消え失せよ」と自分の生まれた日を呪う。胸に迫る悲しみがあります。生まれて来なければよかったと、自分に言うのも悲惨ですが、人に言うのはもっと悲惨です。存在を否定される。あなたにいなくなってほしいと感じさせる言葉は何であっても、呪いと同じではないでしょうか。「呪ってはならない」。誰に向かっても、いなくなってほしいなどと言わないでほしいと、主は言われるのです。あなたにいてほしい。あなたの生まれた日をわたしは祝福する、あなたに幸せあれと私たちの創り主であられる神様は、祝福を宣言されるのです。

そんな祝福は信じられないと思わせる、この世の価値観は存在します。愛し愛されることに理由を求めさせ、人を評価して裁いて呪って、嘘の祝福と呪いに左右される。そんな欲望と罪の価値観こそ、存在しなくてよいのに。そんなもので人の命が、何で踏みにじられてしまうのか。だからそんな呪いを十字架で引き取って、飲み込んで死んで破棄された主が、福音書で、こう言って祝福されたのです。「心の貧しい者は幸いだ、天の国はその人たちのものだ」(マタイ5:3)。直訳は「霊において貧しい者」。罪故に存在の根底が貧しい、私はこの故に自分を誇れる救われると差し出せる富のない者。何かがないと存在する価値がないと命を呪う罪の世界で、なら私には存在する価値があるのかと自分を呪いたくなる者に対して、神様は、あなたは価値がある!わたしはあなたをわたしのものとして永遠に求め愛して救うために、あなたと生きるために来た、あなたの主だ、わたしが呪われて死ぬから、あなたは救われよと、呪いも貧しさも罪の汚れも絶望も存在の否定も、神の御子イエス・キリストが全部引き受けて、十字架で、その存在を代わりに否定され呪われて、呪いを終わらせるために死んで下さった。そのイエス様が、祝福せよ、呪うな、祝福して生きてほしいと言われるのです。

このイエス様の救いがもうあるから、イエス様が私たちの存在を祝福して、共に生きよと、永遠に一緒に生きて下さっているから、その祝福を隣人と生きるのです。呪いではなく、祝福を選ぶのです。

迫害する者のためにも、神様が死んで下さった。愛して下さって、今も愛されているからこそ、呪うなと言われる。呪う呪わんの個人の倫理や義しさなんかじゃない。神様が死ぬほど愛されて、イエス様ご自身、ご自分を十字架につけて笑っている者たちのため「父よ、彼らを赦して下さい、自分が何をしているかわからないのです」(ルカ23:34)と執り成して、祈られた。だからその執り成しに背負われている者として立つのです。高ぶって笑う側に立つのではなく、十字架の主に負われつつ、イエス様の執り成しの祈りを一緒になぞるように祈る者として、貧しくてもいい、拙くてもよいから、父よ、彼らを赦して下さい、自分が何をしているかわからないのですと祈ればよい。主の祝福を与えればよい。主がその時、私たちと共におられる。イエス様が私たちを聖め用いて、十字架の愛の奇跡を恵まれるからです。

その愛を笑う、高ぶった笑いは、やがて消えます。その高ぶる笑いに泣かされて流す涙を、主はご自分の涙として、いつまでも覚えて下さっています。泣いている者は慰められます。復活の主が、そのすべての涙をぬぐって下さいます。その愛の主を信頼して、祝福して歩むのです。