ローマの信徒への手紙12章9-13節、レビ記19章17-18節「愛には偽りなきように」

22/3/27受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙12章9-13節、レビ記19章17-18節

「愛には偽りなきように」

愛には偽りがあってはならない。教会に行き始めたばかりの頃、この御言葉に出会い、襟を正しました。私は愛の人になりたいと求めていたのに、人の為に生きたいと願っていたのに、実際は自分の義しさを親に押し付けて病気にさせ、俺の愛は口だけだと思い知らされた後でした。愛には偽りがあってはならない。漢字で人の為と書いて偽ると読むのもその時知って、それは私のことだと胸に刻まれました。

この御言葉の直訳はこうです。「その愛は偽善なきものだ」。すぐ後に「悪を憎み、から離れず」と続く所以です。アダムが善悪を知る木の実にかじりついて以来、人は何が悪で何が善か、わかったつもりで逆にわからんなり、神様に「あなたがくれた女が渡したから食べたのだ」と言うほどに、自分の悪がわからんなった。自分は義しいという仮面をつけて、善ではなく、偽善に生きる術を知ってしまった。偽善という言葉は、仮面をつけた役者が別の自分を演じるという言葉です。キリスト者として、キリストの愛を受け、十字架の愛を知り、愛に生かされ生きる者として、愛の仮面をつけてはならないと言われるのです。

仮面ですから、その裏に素顔がある。自分は愛しているつもりの仮面の下に、真実の素顔がある。仮面の顔は神様を愛し、隣人を愛する顔、あるいは愛そうと努力している、ように見せる顔(笑)、自分にも見せる顔かもしれません。でもその裏側には、そうやって自分は義しいと自分で認めたい、また認められたいという、自分に固着し、自分に愛着する自己愛の顔があって、神様より人より自分の求めがという素顔がある。その素顔を、まあ夫婦なら少しは見せてもよいでしょうか。見たくないけど見えるのが真実か(笑)。悪を見んふりという愛の仮面もあるのではないか。

その仮面をどうしたら、人を兄弟姉妹を誠実に愛し、しかも互いに愛せるのか。その急所は、仮面の愛の古い自分が死ぬほどの急所は、その一切の素顔を、ずるい素顔も、本当は愛に生きたいのに勇気がない弱い素顔も、誰にも見せられない罪で汚い素顔も、キリストが真正面から見つめ愛されて、そのあなたをわたしに任せなさいと全部抱きしめて受け入れて、十字架で代わりに裁かれて流された血潮で、洗って下さった。そして、あなたはわたしのものだから、偽善のない愛でわたしのものとして愛されて、愛し抜かれているキリスト者として、それが私の素顔ですアーメンと、同じように愛し抜かれている兄弟姉妹たちと、この愛に立てと求められる主への、愛の信頼に立つことです。そのキリストに結ばれた素顔で、はい、とキリストに向く。私たちの素顔はそこにあります。キリストを仰いで、その御顔に輝く赦しと憐れみと恵みに照らされた、キリストが見つめておられるその私たちの顔が素顔です。

その素顔で愛するのです。ある時は救われ赦された素直な喜びの素顔で。その時でも自分の愛の貧しさは忘れないで。あるいは素直な救いの喜びを忘れているような時ならなおのこと、イエス様!と祈りながら、聖めてあなたの愛の御業としてくださいと信頼しながらの謙遜な愛が、キリストを常に必要とするキリストに結ばれた私たちの素顔の愛じゃないでしょうか。愛したくない時があって、不満な時があって、悪魔的に自分は義しいという思いが全てになって、これでキリスト者かと人にも自分にも思いたくなる時、その私たちに、そうだそのあなたが、わたしが命がけで背負ったわたしのあなただ、そのあなたのために、わたしは全て投げ出して、今も愛してやまないと、私たちを離さないキリストに結ばれているから、はいと愛するのです。ごめんなさい、助けて下さい、あなたが私の主でいて下さって、ありがとうございますと、キリストを愛し、そのキリストに愛されている兄弟姉妹、隣人を、そのイエス様の前に差し出す素顔で愛するのです。主のものである私たちの顔を、主にお見せしながら、そうだ、愛に仮面をつけないでと言われる主に、はいとお従いして、共に愛すればよいのです。

この愛が具体化する9節以下の御言葉は、すぐ前8節までの御言葉が描いた教会、キリストの体とされた教会がではどうやってキリストの体として生きるのかを教える御言葉です。単なる理想的な愛や道徳ではないし、個々人が頑張って目指す、自己実現の目標となる姿でもない。むしろこの愛が実現するのは、キリストに結ばれた一人一人が、本当にキリストに結ばれた一つの体、一体とされている奇跡が、しかも貧しく罪ある教会が、ただキリストへの信頼によって、はいと献げる愛の献身を通して、神様によって実現する、教会の実現です。人がこういう教会に行きたいとか求める教会ではない。キリストに結ばれた一人一人が、弱いのに罪があるのに愛されて愛する姿を通して、そのキリストに私も愛されているのかと、キリストがご自身の体なる、教会によって生きて働かれ、人がキリストに結ばれる救いが実現される。だから嘘の救いを証しする偽善の仮面は外すのです。神は愛です。この私たちを救われた恵みの十字架のキリストを、だから教会は素顔の愛で証しするのです。