ローマの信徒への手紙12章3-8節、詩編115篇1節「人と比べず慎める恵み」

22/3/13受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙12章3-8節、詩編115篇1節

「人と比べず慎める恵み」

神様が、各自、一人一人に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。「思うべき」と言ったほうが変に自己評価せず済むでしょうか。5段階評価で自分を4と思うても3にしちょき(笑)という世の慎みとは違います。キリストを信じる者として、むしろ5節で強調する「キリストに結ばれている」者として、教会は自分のことも隣人のことも、どう考えて向き合うべきか。それが今朝の御言葉です。

信仰の度合いに応じてと聴くと、ひょっと誤解するかもしれません。自分は信仰が弱く薄いからという度合いを考えて、日本ではそれを慎みと思う傾向があるからです。直訳は「信仰のはかり」「信仰の物差し」に従ってと言っても良いでしょう。信仰が弱い薄いといった自分の感覚なんかには従わない。世の中の物差しにも従わない。2節は「世に倣ってはなりません」と言ったのです。じゃあ何に従って考えるか。キリストを信頼して、はいとお従いする信仰の物差しで考えるのが、慎みです。

物差しを使わんフリーハンドで、あの人は私はとザっと線引きすると歪みます。考えが歪むからです。その人、また私をキリストが誰とされ、どう向き合っておられるかを物差しにして、はいと信頼し身を委ねる。それがキリストとの信頼関係の物差し、信仰のはかりに従う慎みです。

そうやって、イエス様、あなたが義しいですと信じる具体的な中身は、例えば敵を愛するなど、自分の物差しでは嫌だと思うし、世のならい・世の物差しでは、愚かなこと、損することが多いと思います。だから嫌だと思うのかもしれません。世の言うことが正しいと信じてしまって。そんなにも信仰の薄い私たちへと「神様が各自に分け与えて下さった」のが、キリストを信頼する信仰の物差しなのです。各自に。私は信仰が強いからと思い上がる者にも、信仰が弱いから従えないと思う者にも、もれなく各自に、強い弱いの自分を信じるのではなく、そんな私たちを憐れみ死なれた、どんな私たちだろうと委ねられるキリストに結ばれて罪人が救われる、キリストを信頼する信仰の物差しを「神様が分け与えて下さった」。それを恵み、また恵みの賜物、贈り物と呼ぶのです。自分からは、それを受ける資格も、立派な行いも人格も慎み深さもないのに与えられる、神様の愛。それが恵みです。あなたはわたしと共に永遠に生きよと、神様が望まれ、私たちを愛し、共に生きて下さっている。

その共に生きるいのちと愛が具体的な形を取ったのが賜物です。6節で「私たちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」と、キリストに結ばれた一人一人は恵みの賜物を持っていると宣言されます。詳しくは次週説き明かしますが、その各自の持つ賜物が何であれ、それは自分に由来しない恵みです。キリストに由来する恵みですから、それを持つ自分を誇るのも、持ってない人と比べるのも意味がない、のに、できる自分を誇りたい、できない自分が嫌なのが、世のならい、世の物差しでしょうか。

だから、自分が何を持っておって、何ができて何ができなかろうと、また、つい人が気になって、しかも教会の兄弟姉妹なのに、その人の、できる・できないが気になって、上から裁いたり、同じようにできない自分に卑屈になる時にこそ、その私たちが、誰によってそうなのかを、キリストの恵みによって、恵みから考え直して立ち直るのです。自分は恵みを与えられた者、キリストに結ばれた者だと、立ち直すのです。私も、この兄弟、この姉妹も、全てのキリスト者は「キリストに結ばれた一つの体」である。何で違うのに皆一つなのか。その急所をわきまえれば、全てはわきまえられるのです。何で違うのに皆一つか。キリストがその私たち全員をご自身に結ばれキリストの一つの体の替えのきかん一人一人とされたから。その全員の内にキリストがおられ、その全員がキリストの内に結ばれたから。キリストが!そうなさったからです。

それが、教会の一切のことを考える上での信仰、信頼の物差しです。

私はキリストに結ばれたキリストのもの。この兄弟も、この姉妹も。まだ結ばれてない人も、キリストが結ばれることを求めておられるから、キリストが死ぬほど求めておられるから、だから、このように私は接しますと、キリストが求められている人として、愛されている人として、その救いのために神様が命を献げられた人として、自分を考え、隣人を考え、全ての人を、その物差しで考える。それが教会の考えの基準です。その他の物差しはないからです。それ以外の自分で刻んだ基準、目盛で、例えば本当は長さ1,5㎝なのにそこに1㎝と書いた手作り目盛の胴回りメジャーでお腹を測って、よし60㎝と喜んでも無効と言うか、空しい、本当に空しいだけでしょう。

キリストがしてくださった恵み、死んで下さった恵み、復活されて、ずっと愛して下さっている恵み、その恵みを信頼するメジャーで自分を測ったら、罪も、できる自分も、何も誇れることなどない。そんな私がキリストに結ばれた恵みを慎んで誇れるのみです。