ローマの信徒への手紙12章2節、ミカ書6章8節「恵みでトランスフォーム」

22/3/6受難節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙12章2節、ミカ書6章8節

「恵みでトランスフォーム」

「わきまえる」という言葉。たまに使いますが、存外その意味をわきまえてないこともあるかもしれません。例えば立場を弁えるとは、相応しい態度と言動によって実際に証明される自分の立場の理解のことです。わかった、理解していると思っても、それに相応しい言動が伴わないなら、わきまえてない。もとのギリシャ語も、実際に証明することでわかる理解です。3行目の「何が」から直訳します。「何が神様の求めか、つまり善い、喜ばしい、完全なゴールかを実際に証明し分かるために」。そのためにどうするか。「この世に倣ってはならない。むしろ思いの刷新により、あなたがたは形を変えられなさい」。まるで蝶々が、同じ存在なのに青虫から、形を変えられるように、同じ人間、同じ野口幸生であるのに、御子と同じ形へと造り変えられていく恵みに、はいと身を置く。恵みに身を置く中で、ああ、御言葉で言われる通りだと、神様の求めが実際に味わわれ証明され分かる。思いの刷新によって自分の形が変えられる中でのみ、十字架の神様の御心が、わきまえられるからです。

でないと、わきまえられない。御言葉の勧めは、わきまえなさいではなく、わきまえるために「あなたがたの形を変えられなさい」。そしたらわきまえるから。変えられなさい。もっと正確には、変えられることに自分を置いて変えられなさい。シャワーの水の中に体を置くことで清められるように。ひざまずいて洗礼を受けるように。変えられる恵みの中に、受け身で、はいと体を献げる。変えて下さるのは主です。

この変えられる恵みのもとに体を献げながら、特にこれと献げるのは「心」と訳された「思い」あるいは「理性」です。これも分かるようで分かりにくい言葉なので、言い換えます。これは○○だと認知する力、また、だから○○すべきと判断する力。これを献げるのです。

例えば、これは蝶々だと認知し、これは…似ちゅうけど蛾と認知するように、これが神様の喜ばれることだと認知し、わきまえたいのです…が、蛾を蝶と間違って認知するように、神様の求めを間違って認知するから、刷新が必要なのです。これを行えばよいのだとか、信じていたらいいのだと、神様の思いがわからん人間中心の自己中心の認知の歪みがどうしても起こる。だから、主よ、歪んだ私を憐れみ変えて下さいと、十字架の下、造り変えられる恵みのシャワーの下に謙り、自分で歪んだ理性を差し出す。悔い改めは、この理性の刷新から始まるのです。

また、これは○○すべきと判断する力も献げる。例えば、あの人は私の目に間違ったことをしている、悪いことをしているから、愛さなくてよいと判断することがある。でも、そもそも何が悪であるか、何が善いことでないかは「何が善いことか」つまり何が神様の、つまり全ての人の悪を代わりに断罪し裁くため御子を十字架で死なせられた神様の望んでおられることかを、御子に背負われた自分のこととしてわきまえてなければ、その人の行いがどのように裁かれるべき悪であるかを、人は自分のこととしてわきまえられんのです。十字架を忘れて、悪だと眉をひそめ、だから愛されなくて当然だと無視したり、愛さなくてかまんと判断が狂う。この世に倣った悪い判断、悪の実を結んでしまう。それは単に何が聖書の罪のリストにあるかを認知して済むような古いわきまえでは判断できんのです。その古いわきまえを、神様は十字架で御子に釘打たれたのです。その神様の十字架がわきまえられてない、罪人の救いとなってない、この世の罪の認知では、罪を、だから代わりに引き受けて死なれた神様の罪の認知から生まれる判断に至らない。つまり憐れみ執り成すという判断に至らない。十字架の神様の求めに至らんのです。その私たちは、けれど神の形に創られたのです。その名を愛と呼ばれる三位一体の神様の形に創られたのに、その形が歪んだ人間を神様は何と思われるのか。救われよ、死ぬな我が子よ、わたしは主、あなたの神、あなたのためなら代わりに死ぬ神だと言われるのです。だからあなたに与えた、あなたの救い、御子にあなたの全てを委ねて、十字架の御子の形に体を合わせて、新しい人として造り変えられなさい。それが神の子として新しく生まれ、十字架の神の形に創り直されていくあなただからと主は言われます。

そしたら、なぜ愛するのかの、理由も変えられていくのです。自分が愛したいから・自分の目に可愛いと思うからという自分自分の根拠が、十字架の主のもとで変えられるのです。何故、愛するのか?こんな私のために死んで下さった神様が、この人を死ぬほど愛されているからだと、自分の罪のわきまえから、いや神様の恵みのわきまえから、愛する理由も愛の形も、この世の形から変えられていくのです。

愛する理由、愛し方が変わるとは、生きる理由、そして生き方が変わるということでしょう。自分がでなく、皆が・この世がでなく、神様に愛され喜ばれるから生きる形へと変えられていく。そこに御子と同じ形に造り変えられていく(コリント二3:18)救いが証しされるのです。