ローマの信徒への手紙12章1節、ホセア書6章6節「憐れみに応えて生きる」

22/2/27主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙12章1節、ホセア書6章6節

「憐れみに応えて生きる」

「なすべき」と訳された言葉は「理に適っている」という言葉です。英語でreasonableとも訳されます。買い物の世界では、お値打ち価格なという意味ですが、この商品でこの価格なら、理に適っていると思う。

ではどんな人間の理屈、人間の論理に適えば、自分を献げてもよいと思うのか。身を献げる献身が求められるなんて高過ぎる、むしろ損すると思うのが人間の理屈じゃないか。あるいは幾ら献金すれば天国という免罪符の理屈を思うのか。もし、交換条件の、お値打ち価格の理屈なら、自己責任によって勧めますと言ったでしょう。救いの交換条件として、これが理に適った生き方だろうと。その人間の論理は破綻するのです。むしろ人間の計算の論理を破綻させる、神様の憐れみの論理、この世の理屈を十字架に釘打ち、救いの筋を真っ直ぐ通されたキリストの理屈、「神の憐れみによって」勧めるのです。それが、キリストと信頼関係によって結ばれ救われた兄弟姉妹たちへの、救われた生き方の勧めです。

それは、人がこれをしたから清い、あれをしたき喜ばれるという行いの理屈が全く通用しない、全く無条件の憐れみに根拠を持つ神様の愛を信頼して、この神様から愛されているから愛に生きるという理屈です。一番具体的には、キリストに結ばれたから、キリスト者として生きる。それが「神に喜ばれる聖なる」体として生きるということです。もし罪を犯しても、いや罪を犯してないつもりで生きていても、父よ、こんな私を御子と結んで、子として下さってありがとうございます、あなたの子とされた身を献げ、今日も歩ませて下さい、父よと仰ぐ我が子を何故憐れまない理由があるか。憐れみの理屈で生きられる神様には、ない。あなたはキリストに結ばれたキリストのもの、聖なる者だから、それがあなただから、嘘の自分になるな、嘘の自分にさせる世の理屈に倣うなというのが次の2節なのです。自分はキリストのものだと忘れるなと。

聖餐式で「相応しくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のと血とを犯すのである」と勧められます。これも憐れみによる勧め以外ではありません。相応しくないとは、十字架の犠牲に頼るより、自分は神に喜ばれる生活をしゆうき、それほど憐れみはいらんと自惚れる態度です。また、もっと清くならんと聖餐に相応しくないと思うのも、自分で自分を清くできるという勘違いの態度ですから、むしろ、私は清くないです、でもだから父よ、あなたは私を御子と結ばれて、父に喜ばれる神の子、聖なるものとされて、御子と一緒に御前に献げられていることを感謝しますと、御子と結ばれて、今も結ばれており、永遠に結ばれて憐れみの内に在るしるしとして、聖餐を受けるのが、相応しいのです。

もし、試練や罪、喜ばれない行いによって、私は喜ばれてないのじゃないかと不安になっても、その時こそ、全くの憐れみによって私たちを招き手を伸べ抱きしめて離さないキリストの御声を聴けばよいのです。わたしがあなたを離さない。あなたはわたしのものだから、この憐れみを信頼せよと100%キリストに依存した救いに体を委ねて、はいと自分を差し出せばよい。そこに、自分に頼らない悔い改めもあるからです。

「勧めます」と訳された言葉は「慰めます」「励まします」という言葉です。なぜ慰められるのか。私たちの体と命の所有が100%キリストの憐れみに包まれて、これは憐れまれんという部分がないから、神様との関係と生き方の、一切が、主のもの、神様の聖なるものだからです。

ともすると自分の体を「生贄として」献げよと聴くと、つまり100%献げているだろうか、献げてないなと思うのじゃないか。献身しきれてないと思い、この部分は自分のものとしているから献げれてない汚れた部分だと、またしても、後で清くなったら献げると、キリストを忘れて思うかもしれない。でもだからこそ!キリストの憐れみによって勧めるのです。あなたは神様に喜ばれる聖なるキリストのものだ、それ以外のあなたはないから、それ以外の慰めはないから。キリストと結ばれ一体とされて、今もそうであり、これからも永遠にそうなのだから、その体を献げなさい。それがキリストを讃え、父を讃え、御子と私たちを一つに結ばれて離さない聖霊様を讃える、憐れみの理に適った礼拝だから!それが十字架の神様であって、神様に救われた私たちだからです。

「献げなさい」と訳された言葉の直訳は「すぐ側に立つ」。スタンバイして、すぐ差し出せるよう、準備して立っている状態です。聖なる者として、神様が用いて下さるからです。誰も自分で自分を聖なる者にすることはできません。献げなさい。何故ならキリストが愛する者たちを、既にご自身と一つにされて献げられた者、聖なる体として下さっているからです。だから自分でという理屈を捨て、キリストの憐れみを知る者、それ故に証するキリスト者として立ちなさい。世でも教会でも、どこにあっても、神様の喜びを知る者として出席をする、その場所で私たちは用いられるからです。そこに人間の理屈を超えた御業が起こって神様に出会う、神様の憐れみの理に適った、なすべき礼拝が始まるからです。