ローマの信徒への手紙11章33-36節、イザヤ書40章12-14節「はかり知れぬ主の思い」

22/2/20主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙11章33-36節、イザヤ書40章12-14節

「はかり知れぬ主の思い」

「何と深いことか」。その深さから賛美へと圧倒される深さです。驚きと喜びと畏れを生む深さ。その逆は不満を生む浅い人間の思いですが、前に出張でビジネスホテルに宿泊していた頃、トイレと一緒のお風呂が浅い!すぐお湯がトイレ側に零れ、膝が出て、窮屈でたまらん浅さは、人が神様を窮屈な考えに閉じ込めるから不満を覚える浅さに通じます。でももし、深~い温泉に全身を沈めたら、どう感じるか。子供が温泉で喜んで泳ぎ出す以上の驚きと喜び、また足が全くつかん深さに畏れをも覚えつつ、でもイエス様が私と共におられて、つかまっておれて、それ以上に主が私をとらえていて下さる安心ゆえ、その深さに、神様の救いの富と知恵と知識の深さに、全身を委ねて、アーメンと賛美ができる。それが9章から延々と説き明かされてきた十字架の神様の深さです。

2行目に「誰が神様の定めを究め尽くせるだろう」と訳された「定め」の直訳は「もろもろの裁き」です。あるいは裁きでなされる神様の判決は、ジャッジ、判定でもあるので、定めでもある。例えば「罪が支払う報酬は死である」(6:23)という定めを、人はどう思うのか。浅く考え、これをしても死にはせんだろう、皆やっていると思うのか。すぐ死なん人が多いのは、いや神様の深い憐れみだと、十字架の御子を仰ぐのか。本当は罪と死の定め、裁きの故に死ななければならない私たちを、でもあなたは死ぬな、たとえ死んでも死ぬなと、永遠の御子が引き受けて、神様が!底知れぬ滅びへと降る聖なる裁きの十字架で死んで下さった。神様が!身代わりになられた、その深い憐れみの富と知恵。知恵とは、知識を知識で終わらせず、生かし、実現する具体的な道です。十字架の神様を信頼し、キリストを信じたら救われると、口で伝えても信じないなら、じゃあ自己責任か。同胞イスラエルの救い、私たちで言えば家族の救いを執り成し祈る説得が9章で始まった時、パウロは、彼らのためなら私がキリストから離され神様から見捨てられてもよいと思っていると、そのためにこそ十字架で御子を代わりに棄てられた神様の深い知恵に、すがりついて祈ったのです。どうしたら救われようとしないように見える者が救われるようになるのか。人はわからない。絶望的になる。神様のせいにさえしたくなる。その浅い人間をとらえて、ここに来なさいと招かれる知恵の深みがあるのです。裁きがわからない、神様の愛と正義の道がわからない、わかったつもりで侮って、人のせいとか神様のせいにする人間が、あるいは自分は大丈夫と思っていた裁きに遭って、何で私がと頑なに神様を疑うような理解できない神様の道と裁きの深いところで、なのにその一切が深い十字架の憐れみの中に受け入れられ、深さの奥で、神様ごめんなさいと低くされて、その救いの憐れみの深さを感謝して知るように導かれる、その憐れみの知恵の何と深いことか。棄てられる場所で救われ、絶望する場所で希望に出会い、神なき場所で十字架の神様に出会うのです。神様が!出会ってくださるのです。

その神様の道が、神様が!私たちには計り知れないと知るのは、神様を神様として信頼するために必要です。神様として信頼するとは、36節で賛美告白するように、全て、一切の、万物が神様のご支配の内にあると信じ告白し、自分の足がつかん深みに畏れつつその私たちの救い主キリストの恵みと憐れみに全身を委ねるということです。一切が十字架の神様のご支配の内にある。それを8章28節ではこう言いました「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを私たちは知っています」。では、神様を愛さない者、不従順な者にはどうなのだろうと不安に思ったことはないでしょうか。むしろ自分は神様を愛しているだろうかという不安を口には出さずとも思う人のほうが多いかもしれません。主を愛してないからこんなことが起こるのだろうか。神様を愛してないから祈りも聴かれず家族が救われないのではないだろうか。まして十字架の神様を信じてもない家族はと不安になる時、あるいは不安だから考えないようにする、足がつく人間の浅い考えに立とうとする時こそ、今朝の御言葉を聴けばよいのです。「誰が、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。人が先ず愛するから、救われたり、救ってもらったりするのか。決してそうではない。神様が先ず愛して、御子を与え、選び、憐れみ、恵みによって救ってくださるから人は救われるのです。その恵みの深さに全部委ねて、愚か者のように確信すればよい。8章38節以下のようにです。「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」何故なら「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているからです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。この方が神様だから!私たちの信頼できる十字架の救いの神様だからです。