ローマの信徒への手紙11章25-27節、イザヤ書59章20-21節「頑なさがなくなるとき」

22/2/6主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙11章25-27節、イザヤ書59章20-21節

「頑なさがなくなるとき」

「ぜひ知ってもらいたい」。直訳は「無知でいてほしくない」と口語訳で訳された言葉です。同じ言葉を、教会は葬儀のたびに繰返し、復活の希望の言葉として告げ知らせます。「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たないほかの人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。」(テサロニケ一4:13口語)そしてイエス様を信じた死者の、またイエス様が再臨なさる時に生きて主に出会う者たちの、復活を、そのようにあなたも信じなさい、無知でいてほしくないと希望を告げます。主を信頼する希望を告げるのです。

復活もまた25節の御言葉が告げる「秘められた計画」の中身ですが、これは「奥義」あるいは「神秘」という言葉です。つまり人間の理解を超えている。あるいは、つい人間が自分は賢いとうぬぼれ、そんなのは信じないと、その奥義を、なのに隠しておかないで明らかにされた神様の思いを信頼するより、自分の理解では、信じられないと思い上がる。でも超えているから信じる他ない。その自分を信じない、神様への信頼が希望を生み、御心に謙遜に歩めるようにする。それが奥義です。

例えばエフェソ書で「それゆえ人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この奥義は偉大です」(5:32)と告げる奥義を、ある神学者はこう言います。「男と女とが結婚において、さしあたり徹底的に疑わしいが一体となるということが奥義である」(笑)。二人が一体となるよう選ばれた神様を、まるで愚かにも信頼し、自分の賢さを信じずに神様の奥義に身を委ねて謙遜に従う。その信頼が、賢さでは結び得ない愛の実を、神様から!希望から生まれる愛を結ぶ。それが奥義です。

それは25節3行目「一部のイスラエル人が頑なになったのは」続きを直訳すると「異邦人の満たしが中に入って来るまでであり、こうして全イスラエルが救われるようになる」。だから目に見えるのは不信仰でも、愚かにも奥義に身を委ねて救いを証しし祈り続ける。これが奥義です。

既に右頁上12節3行目で「まして彼ら(イスラエル)が皆救いに与るとすれば」と訳されたのは「まして彼らの満たしは!」だと言いました。同じ言葉が今日の25節で「異邦人の満たし」と繰返されるのは、確かにイスラエルも異邦人も、救われる人々が満員になること、しかも26節で「全イスラエルが(未来形で)救われるようになる」と告げる奥義ですから、だから異邦人も全体がと訳したのでしょう。でもそこでこそ奥義に対する姿勢が求められます。なら結局皆が救われるのだと賢くも理解して、伝道も証の生活も執り成しの祈りも、だったらしなくて大丈夫だと、わかったつもりになったら、決してそうではないと言われる。いやほんの前に「畏れなさい」と言われたことすら愚かにも守ってないことになるのではないか。その頑なさ、神様も救いもわかったつもりの自分の義しさから頑なに離れられなくて、神様の思いがわからない。謙遜にキリストの招き求めに従えない。とてもイスラエルだけの頑なさだとは思えないこの頑なさが本当に無くなるのか。

言い換えれば、自分ではどうしても取り除くことができない、自分の考えからも態度からも遠ざけることができない、その頑なさが具体的に現れ出たさまを、26節では「不信心」と言うのです。神様を神様として畏れ敬わない態度、または反逆とも言い得る言葉です。例えば「でも」と逆らって自分の主張を言いたい。御言葉に、でもと言いたい。神様に従いたいと願いながら「でも」がどうしても遠ざからない。けんど心で思うがやも(笑)と思ってしまうほど、遠ざからない。その頑なさを、だから唯一の救いの希望として来られたキリストが、また再び来られ、「でも」と神様に逆らう頑なさを遠ざけ、取り除き、見えない目を開かれて、わたしが主、あなたの神、あなたには、わたしをおいて他に神があってはならないと、全イスラエルをご自身に立ち返らせて、お救いくださいます。その時、全イスラエルは、シオンと呼ばれたエルサレムで私たち全員の罪を負われて十字架で死なれた王の救いによって、「でも」が取り除かれて満たされます。それは彼らが自分で頑張って信じたからではないし、その救いを見て、その日には既に満たされている異邦人の内で、やっとわかって悔い改めたかと言い得る者など、おらんのです。

奥義とは、その頑なさを十字架の主が憐れんで取り除いて下さるのだと、自分では遠ざけられない自分の反逆を、でも御言葉によって神様が求めておられるからと、捨てられないのに、でも捨てますと、キリストの救いに身を委ねる、その一切が、神様の恵みによる、キリストの死と復活に包み込まれて救われる、神様が救って下さるという神秘です。

その奥義について、イスラエルの救いだけではない、彼らの頑なさだけではない、すべての人の救いが、すべての人の頑なさが、キリストの最初から信じなさいと求められ、信じる他はない、救いの憐れみの内にあることに無知でいてほしくない。知って愚かにも信頼し、でもの只中であきらめず、救いを祈る僕を、神様の奥義の希望は照らすからです。